以降ずいぶん方々ふらふら散歩してんですが。
今年はちゃんとしますよ、きっと。
こんにちわ。
日本に文字も無かった時代にも日本列島にヒトはいました。
隣の部族と交易したり婚姻したりで行き来もするし道ができました。
そんな時代から、文字や道標ができて記録され始めた時代を経て、まるまる現代まで、
道が積み重なって残ってるとこなんかあったら、
見物いくでしょ、歩くでしょ。
で今回は静岡方面です。
それも矮小に言えば東海道本線用宗駅と隣の焼津駅の間、
あるいは静岡平野と志多平野を分かつ赤石山脈の端切れとか、
壮大に言えばフィリピン海・太平洋・ユーラシアプレートの鬩ぎ合いとか、
そんなとこを散歩してきました。
で驚いたんです。
こんなとこに こんなもんがあって それほとんど知られてないって、どうゆうことかと。
なのでそれを手みじかに発表します。
あらすじ。
きっかけはさておき(ハンバーグだよ、さわやかの)静岡山梨方面に何回か散歩に出かけました。
そしたらトンネルや峠道がいっぱいありました。
時代や目的、保持技術によってルートの変遷がありました。
でそのほとんどが残されてました。
オマケとして奇跡の集落もありました。
そんな話です。1頁でやっちゃいますからね、長いですよ、今回特に。
まず地図から行きましょう、こんなかんじって。
静岡平野と志多平野を分断する山地の全体とか宇津ノ谷/日本坂の位置関係とか。
画面右の赤い二重線(東名高速日本坂トンネル)が約2.4㎞くらいと思ってください。
で東側、日本坂系の詳細図。
東海道本線で言ったら用宗と焼津の間です。
赤い二本の平行線は東名高速の2本各2車線の上り用トンネル、ピンクは3車線の下り用トンネルです。
水色は国道150号新日本坂トンネルです。一本に描いてますけど実際は上下で別隧道です。
オレンジは東海道新幹線日本坂トンネル。
黄色は在来線の東海道本線トンネルで、一緒くたにしてますけど本名は「石部(せきべ)トンネル」です。
他に「大崩トンネル」とかあるんですけど、事情により現在割愛中です。
また情報的に煩雑になるので割愛しましたが、地形図に見える通り国道150号および新幹線日本坂トンネルの北東(静岡寄り)には「用宗トンネル」という予備トンネルもあります。
今度は宇津ノ谷系詳細図。
東海道五十三次で言ったら丸子宿と岡部宿の間。
こっちは時代順に紹介しましょう、
赤が平安初期にはあった「蔦の細道」。
水色が頼朝が整備して秀吉が拡張して江戸時代いっぱいまで使われた「旧東海道」。
黄緑が「明治トンネル」
紫が「大正トンネル」
黄色の西側が「昭和トンネル」、東側が「平成トンネル」。
もうなんだかわかんなくなってきました。
時系列順に整理してもっとわかんなくしてみます。
緑は日本坂系、オレンジは宇津ノ谷系ということで。
名称 種別 時代 距離 最高点
●古代東海道 歩 奈良~平安初期 ?
●蔦の細道 歩 平安初期~ 約2,500m? 210m
●鎌倉道(旧東海道) 歩 鎌倉~江戸時代 1700m? 162m
●明治トンネル 歩 1876年~ 203m 115m
●石部トンネル 鉄 1889年~ 2,205m
●大正トンネル 歩車 1930年~ 227m 107m
●日本坂トンネル44 鉄 1944年~ 2,174m
●昭和トンネル 車 1959年~ 844m 70m
●日本坂トンネル69α車 1969年~ 2,380m
●日本坂トンネル69β車 1969年~ 2,370m
●新日本坂トンネル 車 1973年~ 2,207m
●平成トンネル 歩車 1995年~ 881m 70m
●日本坂トンネル98 車 1998年~ 2,555m
●新日本坂トンネル 車 2002年~ 3,104m
さて、位置的時系列的に取り合えず示し倒したとこで、
歩行→荷車→鉄道→自動車 と交通の主役が変わるたびに
宇津ノ谷系と日本坂系がイニシアチブを奪い合う。
巻き込まれる前後の宿駅いい迷惑。
ええもちろん新東名とか無視してますよ、細々やってりゃキリ無いし。
では時系列順にでも案内しますかね。(しない。面倒になったので宇津ノ谷系はまとめた)
「古代東海道」については鈍い緑で濁しましたけど、
今更どこだったんだか判んないんですから。
記紀に日本武尊が火攻めに遭って迎え火で逆襲ってエピソードがあって、
その舞台になってついた地名が焼津、野秋(野焼)だろう日本坂だろう、
古代東海道はきっとこの辺だったんじゃないの、
焼津市西小川に奈良時代の伝路の駅家(うまや)があったみたいよ
って程度で、
なにしろ痕跡ほとんど無いんでまるでわかんない。
二番目の「蔦の細道」も実は心細い。
| 苔好きにはたまらんだろな |
現在「蔦の細道」とされてるルートは昭和30年代に長田西小学校(おいこれしずてつジャストラインで丸子や宇津ノ谷入口に向かう道中の旧街道沿いの学校じゃないか)教諭だった春田鉄雄氏が「蘿経記碑」や「伊勢物語」の古文、「猫石」等の遺物その他記録、あるいは「ここは確かに道だった」と思しき痕跡を辿り、「きっとこんなかんじで通ってたずら」と切り開いた復刻の道です。
| 蘿経記碑 |
「蘿経記碑」は文政13年(1830年)に建てられた「あー往時には蔦の細道って風情ある道があったのに、秀吉公の新道開削以来すっかり忘れられ廃れちゃったんで、とりあえず記念碑立てて偲ぶよすがにでもしておこうか」ってんで羽倉簡堂って儒学者が建てたものです。
だいたい「現蔦の細道」カッコよすぎるんですよ、ドラマチック過ぎる。
低いあたりは沢沿いで自然なんですけど峠頂の前後の終盤、スジが強引な気がしてたんです。
とりあえず峠の頂に到達して一服がてら案内板やなんか撮ってたんです。
そしたらモニタ上にうっすらとなにやらの御姿が。
出来過ぎでしょ。
岡部藤枝側の志多平野じゃ見えなかった、峠越えた静岡平野でも平地部では当分見えないはずの富士山が、ここで初めて垣間見える重要ポイントですよ。
だったら目出度くなんらか記録に残るでしょうに。
あるはずだよなあ。「蘿経記碑」とかにそんなこと書いてあんのかよ。
あった。
| 廃れた古道の解説の碑文の解説立札 |
低いあたりは沢沿いで自然なんですけど峠頂の前後の終盤、スジが強引な気がしてたんです。
とりあえず峠の頂に到達して一服がてら案内板やなんか撮ってたんです。
そしたらモニタ上にうっすらとなにやらの御姿が。
出来過ぎでしょ。
岡部藤枝側の志多平野じゃ見えなかった、峠越えた静岡平野でも平地部では当分見えないはずの富士山が、ここで初めて垣間見える重要ポイントですよ。
だったら目出度くなんらか記録に残るでしょうに。
あるはずだよなあ。「蘿経記碑」とかにそんなこと書いてあんのかよ。
あった。
| 而山椒正見不盡峯於東面 |
「而して山、椒正に不盡峯(不尽の峰)を東面に見ゆ」、
峠頂まで登れば東に富士山が見え…ってちゃんと書いてある。
おいおいホントだよ。
少なくとも化政期にはほぼ今の位置で残ってたみたいだよ。
で、この「蔦の細道」について、不倫のすえ東国に左遷、略して東遷された在原業平が鬱蒼たる蔦の細道に差し掛かり、遥か西の都を振り返りつつ
「駿河なる うつの山辺の うつつにも 夢にも人に あはぬなりけり」
と一首詠んで「伊勢物語」に遺した、って思ってる人、それ違いますからね。
「伊勢物語」自体が業平の書いたものではない後世の創作でおまけに作者不詳だし、
その中で業平をモデルにしたとおぼしきかもしれない人物が、
「夢にも人に遭わぬ」はずの宇津ノ谷通った時に嘆歌詠んだら、
なぜかその時に限ってたまたま通った修験者いたんで
都に行くようなことがあったら伝えてねって託した、ら伝わった、と言われている、と書かれている歌の話ですからね。
ところで律令制成立時点では日本坂系だったとおぼしき古代東海道、なんで廃れて平安初期に宇津ノ谷系に移動したんでしょね、ってとこなんですけど。
平安時代ってのは794年に始まりますよね。
途端の800~802年にかけて富士山が延暦大噴火ってのやらかします。
それで埋まったのか地震動で崩れたのか、あるいは古代街道の足柄峠はその時潰れましたから、そのあおりで街道の付け替え等があったのかもしれませんね、ってどっかの本で読んだ気がします。
はい14本の道を羅列しといてまだ2本目ですからね。
「蔦の細道」西側、岡部側、坂下集落側、宇津ノ谷公園側の入り口っぽいとこの動画で始末しますよ。
えーと次は鎌倉道の旧東海道ですか。
これも宇津ノ谷系ですね。
史上初の本格的武家政権(ってことでいいんですかね)鎌倉幕府が樹立され、でも余所の武家勢力も怖いし「いざ」となったら「鎌倉」へ馳せ参じてね、って整備したいわゆる広義の「鎌倉道」として、ヒト動員したインフラ整備できるようになったんですよ、武家が。
それまでそんなこと出来るのは東大寺に大仏拵えちゃうような「オカミ」「ミカド」だけだったのに。
でそれまで街道整備ってのは「利用者」が主体的に利己的範囲で自力でやってたのが
「為政者」が労役動員して政策的にできるようになったわけです。
なので単なる個々のユーザだったらバカバカしくてできない大工事も、公的デベロッパとしてできるようになってたわけです。
自分が通るためだけだったら「切り通し」なんて考えないですもん。
不便我慢しますもん。
いや雲取山に独力で富田新道って絶景の登山道切り開いちゃった鎌仙人っての思い出したけど。
でこの道を安土桃山期の小田原攻めの際に秀吉が拡幅再整備して進軍したと。
で、これが平安以来の道より断然便利なので
次第にあのステキな「蔦の細道」は廃れてしまったけど、
後の世にかつてあったあの道を見つけて私と同じ気持ちを抱く人は誰かしらね、
と思いここに目印の碑を建てときましたよ
ってのが「蘿経記碑」の能書きの締めでした。
春田先生でした。
そしてぼくを含めた多くの現生人も続いてます。
「蘿経記碑」を後に、国道一号線にかかる歩道橋を渡ります。
この歩道橋、後でもう2回ほど登場します。
さて鎌倉~江戸期の東海道東海道宇津ノ谷峠ですが、
入り口の入り口は国道一号線宇津ノ谷トンネル、最初の方の地形図に記した「昭和トンネル」「平成トンネル」の岡部方の口のすぐ脇、「蘿経記碑」から国道越える歩道橋のぶっとい支柱の陰から始まります。
国道一号線宇津ノ谷トンネル岡部方口
手前方のクルマがトンネルに入ってくのが上り線の「昭和トンネル」
奥のクルマが出てくる方が下り線の平成トンネル。
上下線を跨ぐ歩道橋の橋脚の陰から始まる旧東海道、明治トンネル、大正トンネル共通の入り口。
この後いったんコンクリ舗装の8mくらい幅ある道に出るんですが、それは昭和・平成トンネル通気口の管理用路で、そこから裂けて分かれるように旧東海道となります。
もうね「蔦の細道」昇り降りしてた頃はね、国道一号線のクルマの音がかなり深いとこまでゴーゴー聞こえててね、峠頂に至ってはトンネルの東口から西口からズッボンズッボン音たてて出入りするクルマの音が耳障りでモヤモヤしてたんですけど、この頃には不快な騒音が一周回って快感に近くなってましたよ。
「あいつらココ見ないで歩かないで通過しちゃってんのかーw」って。
「坂下」ってのは蔦の細道岡部方終端の集落名です。
歌舞伎・講談でお馴染み「文弥殺し」、あの殺害現場の地蔵堂はココだったんですよーっ!
地蔵堂は朽ちて消えてますが、基礎の石組みや遺構が残ってんですよーっ!
なのでなんかの加減で木漏れ日が幹に当たるとピカーっと光って見えるんです。
「ん? 観音像?」 「いやジェダイ服姿のヨーダ?」
近寄る間もなく見る見る光は形を変えます。
そばまで寄った時にはすっかり消えかけてました。
縄文人の遮光器土偶のモチーフって案外こんな時に見たマボロシかも、とか思ったり。
峠という程の峠でもなく下り始めた先が開けて、なんか不思議な集落が見えてきましたよ。
宇津ノ谷の上集落です。
なんなの、ここ一体?
角屋さんではイヌと柿干してるし。
これもうわかんねぇな。
いつの話だよ。
さてここで折り返せば「明治トンネル」ですが、
冒頭の時系列整理では「石部トンネル」が間に挟まるんですよね。
どっちからやるか、ここでいったん休憩です。
| 道の駅に近い下宇津ノ谷集落 |
-----再開-----
当エントリー書き始めた当初、
「宇津ノ谷峠vs日本坂」の技術史的必然な大河戦史、みたいなの考えてたんですけど、
もうそんな感じになりそうもありませんね。
歩いた順に準じて次は明治トンネル行きます。
とその前に、
「なんで技術的に未熟な古いトンネルほど総延長が短距離で済むの?」 の答えです。
| 宇津ノ谷峠鞠子側かなんかにあった解説図 |
街道の標高下げて峠の往来を楽にしようとトンネル掘ってるわけですけど、
若い時代は長いトンネル掘る技術も資本も無いので
山塊の痩せてる高いとこ掘らざるを得ない、ということです。
では満を持して、1989供用開始の「石部トンネル」を後回しにして
「明治トンネル」、東側(宇津ノ谷集落側)のアプローチです。
| 「明治トンネル」丸子(宇津ノ谷)側口 |
このトンネルの宇津ノ谷側はちょっとした公園になってて、
宇津ノ谷に重層に残る各道を立体的に掴めてとても良い展示だと思いました。
| 宇津ノ谷峠各道の立体模式 |
| 「明治のトンネル」内部 |
-------------書きかけ 再開---------------
さてここでくどくどしい説教が始まります。
そもそもこのエントリ自体、先週どこ行ったかすら忘れる自分への覚え書きですからね。
この明治トンネル、誰がなぜ掘ったか。
維新後の新体制を整備したい新政府は明治4年(1871)にこんな太政官令を出します。
治水修路架橋運輸ノ便ヲ興ス者ニ入費税金徴収ヲ許ス (太政官第六四八号)
橋や道を公共の便宜のため新しく作ったものにはその通行料の徴収を認めるという布告です。
本来新政府が負うべきインフラ整備の民間頼み。
これに応えてチャンスとばかり立ち上がったのが岡部の杉山喜平治。
有志を集めお上に嘆願出して認可されたのが明治6年12月、
翌明治7年5月着工、明治9年(1876年)6月竣工したのがこのトンネル。
総工費24,817円96銭、うちオカミからの補助金8,300円。
人夫延べ150,000人。
整理すると
約25か月750日で150,000人工だから、
ガッチンガッチン掘る人、瓦礫運ぶ人、アーチ掛ける人、路盤整備する人…
丸子側と岡部側にそれぞれ50人ずつ分かれて日勤100人夜勤100人
一人当たり1.35㎜/日、掘り進む。
総工費のうち15,000円を人件費とすると日当は10銭ですね。
この10銭という額がどんなもんか、
開業後の通行料金をみてみましょうか。
人一人 六厘
荷車一車 二銭一厘
荷馬車 一銭二厘
人力車 一銭五厘
両掛 九厘
売牛 六厘
まあ妥当なとこでしょうか。
以前同じ静岡の、同じ明治期の、
相良油田の労働者数と産出量と当時の石油価格をあれこれ計算したことがありますが、
何度やっても計算間違いみたいな値が出て困ったもんです。
それに比べれば腑に落ちやすい数字です。
| 「明治トンネル」岡部側口 |
| 明治天皇御駐輦址 |
早速権威の象徴として西へ東へ引っ張り回されます。
地元の記録によりますと、
最初に京から江戸へ向かう際の明治元年10月5日、
一旦京へ還幸する際の明治元年12月13日、
奠都され東京となってからの明治2年3月22日、
と短期間に一往復半旧東海道の宇津ノ谷峠越えをさせられています。
「輦」とは略さずいうと「輦輿(れんよ)」という乗り物というか移動式お座敷というか、
2畳ほどのお座敷に長手がついてて、これに天子様を座らせて大勢で担ぐ、
屋根の無いお神輿みたいもんです。
これにゆさゆさ揺さぶられながら座ってなきゃなんないんだから乗ってる方だってくたびれる。
さあこれから峠だ、道も狭くなって担ぎ手も減る、ひときわ揺れるでしょうからその前に一休み、と
お休み処を設けて輦輿を降ろして担ぎ手ともども一息入れた、
その場所がここでした、って記念碑が峠の岡部側、
明治トンネルと大正トンネルの別れ道に建ってる。
まわり不法投棄のゴミだらけでしたが。
そして明治11年(1878)11月3日、北陸巡幸の帰路、
明治帝は久々に宇津ノ谷峠に差し掛かります。
するとなんとビックリあの難所(でもないけど)の峠にトンネルができてるではありませんか。
嘘。
その二年前の明治9年11月18日には京都行啓に向かう昭憲皇后が既に通ってるから
話には聞いてた。
維新のドサクサと共に往年の宇津ノ谷峠を強く記憶する陛下は、トンネル開通に感慨もひとしお、
「ヨク出来タ感心ダ」
のお言葉と共に銀杯三組、目録金15円などを杉山喜平治らに御下賜されました、とさ。
さて旧東海道の峠から交通の主役の座を奪い、
日本最初の有料トンネルともなった「明治トンネル」こと初代宇津ノ谷隧道ですが、
その収支を年次で見てみましょう。
毎年2000円以上の通行料収入と、その約6割相当の修繕費等支出があったようです。
しかし気になるのは明治22年に何があったんだ、ってとこですね。
収入激減、これじゃ例年並みのまともな修繕もできません。
これが今回の長大なエントリーのキモ、栄枯盛衰の大河物語ですね、思い出しました。
鎌倉道の登場で廃れた「蔦の細道」を羽倉簡堂が嘆き、
頼朝が開き秀吉が拡張整備したその東海道宇津ノ谷峠の栄華も
明治のトンネルに主役を奪われる。
その明治トンネルに致命的な一撃を与えたのは、思いもよらぬ東の果てよりの刺客、
日本坂よりさらに東の海岸線近くに穿たれた「石部トンネル」、
そして東海道線全線開業という未知の文明でした。詳細は大後述。
さらに明治29年、
追い討ちをかけるように修繕不良を起因とするカンテラ落下によるトンネル火災。
嗚呼驕れる者は久しからずや、盛者必衰の理。
花の命は短くて、明治トンネルの天下は二十年に散ったのでした。
明治35年には隧道修築の議が建ち、
今度は地元有志ではなく静岡県の事業として着工、
屈曲していた初代のルートを直線化するなどマイナーチェンジも加え、
明治37年(1904)5月10日に開通式、再供用開始となるのですが、
汽車も自動車も通れぬ小規格ではもはや往年の栄華を取り戻すことは夢のまた夢。
でもあまり使われなかったから痛みも少なく現存できて良かったね。
さて、「明治天皇御駐輦址」からゆったりしたカーブの上り坂の先に、
すぐ「大正トンネル」が見えてきます。
| 「大正トンネル」岡部側口 |
計画・着工が大正15年(おいギリギリ滑り込みだなぁ)ってだけで、
完成・供用開始は昭和5年なので細かい人は「昭和第一トンネル」と呼んでます。
でも付近の国土交通省や静岡市や藤枝市がてんでに立て散らした案内板には
「大正トンネル」で統一されてますよ。
掴みやすいもんね、それでいいじゃん。
| 「大正トンネル」岡部側口 |
まあいいや、湾曲してるせいだろう。
| 最初から自動車対応 |
歩車トンネルとして現役です。
「大正トンネル」あっさり終了。
珍しい道の駅です。
その丸子側上り線道の駅の前あたりからの眺め。
| 左が下り「平成トンネル」 右が上り「昭和トンネル」 |
国道1号線新宇津ノ谷隧道、通称「昭和トンネル」です。
朝鮮特需の好景気を経て高度成長期を控え、
幅員9m、当時断面積日本一を誇ったトンネルです。
当初はこの一本で各1車線の上下線を担っていたんですけど、
このトンネル自ら呼び水となって更なる交通量の増大。
仕方なく隣にもう一本掘ることにして
平成2年(1990)着工、平成10年(1998)に完成・供用開始したのが左の穴、
平成宇津ノ谷トンネルって銘板はまってます通称「平成トンネル」です。
以降、国道1号線下りを平成トンネル、上りを昭和トンネルの各2車線で運用されています。
もうね、トンネル楽しくなってきてましたからね、
普段大嫌いなクルマの音もなんだか平気な気がして。
通ってみますよ、「平成トンネル」。
| ごーごー言ってる騒音のるつぼみたいとこに突撃ですよ |
| うそ、明るいじゃん |
中は実はとっても暗い。
目は慣れてくるので足元が見えないなんてことはないけど、レンズは正直。
ぼくのVario-Elmarit F2.8- がシャッタースピード2秒とか要求してくる。
換気塔が機能してるのか、意外なほど息苦しくは無いです。
| 岡部側出口の先に「あの歩道橋」が見えてきました |
| 約12分、途中写真撮ったりしてたからな、まずまずのタイム |
何が楽しいんだかわかんないけど4時間も浪費、
蔦、東海道、明治、大正、平成と峠を2往復半堪能したとこで、
昭和トンネルは勘弁しといてやるよ、
と岡部方向に国道沿いの旧道など楽しみながら向かいました。
道中、神社の階段下に座ってた爺さんに土地のことあれこれ教えてもらったり、
結構まとまった距離残ってる東海道の幅三間道も静かでよかったです。
岡部宿大旅籠柏屋の館内展示も大変興味深いものでした。
などなど旧岡部町(今は吸収合併されて藤枝市岡部町)観光を楽しみつつ、
柏屋(と書いてかしばやと読む)の外の観光案内所にあったスタンプでも貰おうと手帳を探しました。
ありません。
さっき平成トンネル入る前に寄った道の駅でスタンプ捺したばっかなのに無い訳が無い。
きっとそこにある。
| しずてつジャストラインで引き返す 行く手には「あの歩道橋」 |
| 「昭和トンネル」が呼んでいた |
道の駅のスタンプ台で無事に手帳は回収。
この手帳、実は3日後くらいに更なる波乱を引き寄せるけど、それはまた別のお話。
| 月ものぼるよ宇津ノ谷峠 |
「しずてつジャストライン」は腹黒い中京人のJR東海と違い、
SUICA,PASMOも使えるとっても常識的で便利なバス会社です。
居眠りしてたら静岡駅通り越して新静岡駅に連れてかれました。
広々整然としたバスターミナルから出ると静鉄静岡清水線乗り場が直結、
実によくできた建物です。
なんていうビルでしょうね、cenova ですか、しゃれてますね。
お腹も空いてきたんでちょっと5階にでも上がってなんか探しますか。
むむっなんだあの霞みは?、館内火災か?!
| 「さわやか」もくもくしてました |
忘れかけてた使命を思い出しました。
ありがとう静鉄、ありがとうさわやか。
この日は軽やかに別添えサラダとおにぎりハンバーグ。
ロードサイドの一軒家スタイルがほとんどの「さわやか」にあって、
ここはSRC造ビルの中、なおかつ専用の電車・バスの発着施設も備えて近代的さわやかでした。
| この牛さん ちょっと気の毒ね |
帰り道、沼津まで有料快速乗ったんだけどさー、
しょぼー。
湘南ライナーじゃIC乗車券やスマホに情報記録入れて座席上のセンサーにかざすだけだぞ。
車両は汚いし「ドアから手を離してお待ちください」ってうるせんだよ。
おかげで車内にさっき回収したばっかの手帳落としてきちゃったじゃんか。
まだ宇津ノ谷側が終わっただけだ。
これから日本坂編が始まるのだった。
しかしあえて2エントリーに分けない。
このまま続ける。
宇津ノ谷峠を3往復楽しんだ2日後、警察署から電話が掛かってくる。
「こちら洞乃庵さんの電話でよろしかったでしょうか。こちら沼津警察署です」
はい数行前の赤字からの続きです。
せっかく回収した手帳をなくし直して、
いちおうさわやかcenova店とか心当たり電話してみたりはしたんだけど行方不明。
それが沼津警察署に届いてましたよ、電車の乗客が拾って駅前交番に届けて云々、
それはともかく、
なんでそれがぼくの手帳と判った?
他人の電話やアドレスはいくつも書いてあるけど、自分のなんか書いてないはずだぞ。
よしんば書いてあったとして何故持ち主と特定した?
この謎を解くべくこのひと月で6回目の静岡行きとなった1月12日は快晴。
| 石部トンネル東側の用宗駅スタート |
駅頭でいきなり「無理」と断言されました。
| おーいきなり旧街道を彷彿とさせる三間道 |
トンネルの左の崖に落葉に埋もれた階段があります。
階段登るとこんな位置。
ここで東海道新幹線「日本坂トンネル」に入る前の予備トンネル「用宗トンネル」覗いてました。
| ほら左に「用宗」って書いてあるから間違いない |
| 前触れ無し |
| クルマがほとんど通らないのは何故でしょう |
| 北東側眼下には東名と新幹線の立体交差 |
| ほんとどこにでも映り込んできやがるな、あの山 |
| 南西側の眺め |
海岸線に道を切り通しても山腹に隧道掘っても崩れてくるんで、
しまいに海上を橋のように道路出して岬をかわしてんのが見えますが、
先の隧道が潰れてるんで現在これも通行止め。
| 焼津市側にあった大崩通行止めのお知らせ |
| 頂上近くで行き止まり クルマ少ないわけだよ |
| きっとこんなの正しく潜って行けば 北側に降りられるはずなんだけど |
| 結構行ってからの行き止まりはこたえる |
さあいきなりたっぷり道草食って、ようやく日本坂峠の東側登り口、
小坂(と書いてオサカと読む)に入ります。
| 左にそれると小坂の集落 |
| いいかんじの三間道と沿道の家並 |
| 小坂に2つか3つしかない商店 専売の塩も郵便切手も買えるよ |
でもなんか変なんだよ、違和感ある。
それで気付いた。
塀も生垣もなく、道路に縁側むきだしの家がいくつもある。
なんだろう、これは。
難しい建物が見えてきました。
一本に繋がった通気口、お蚕場なのかミカン屋なのか、はたまたお茶関係か。
| 中にミカンのカゴが見えました |
| おい、また誰もわかりゃしねーと思ってテキトーを |
ここからいよいよ日本坂峠の上りです。
みかんやお茶の作業用なんでしょう、7割がたのところまで簡易舗装の道が続きます。
| まがった先の傾斜角度がおかしいと思うんですけど |
| 急坂に足を止めて振り返れば あいつが見てる |
結局は元の舗装路に戻ります。
がそれも一時の話、最後は峠頂までひたすらの未舗装路です。
| なんか狭くて低いぞ |
| L字アングル2本渡した上に雑草生い茂る橋 って渡れるかよっ |
背伸びしてカメラ突き出してシャッター押してみました。
| またあいつが映り込んでる |
| ←花沢山 宇津ノ谷峠 万観峰→ ←花沢の里 小坂→ ←東海自然歩道 バイパスコース→ 躁状態の案内板 |
手前、山の襞に抱かれるようにひっそりと隠れ里が垣間見えてますよ。
さあ下り。
なにか大事なことあった気がするけど忘れた。
そもそもこのエントリーのテーマなんだっけ。
あ、思い出しました、
古代東海道とおぼしき日本坂峠、クリアです。
いいのかこれで。
| 峠の西側の道は坦々としたつづれ折りが多い |
| いったん舗装路に出ますが |
| 舗装路またいですぐまた続きます |
| ガレガレの道をしばらく下りると |
| 急に墓場の裏へ出ちゃいました |
| なにやら凄そうな山門建ってるし |
| なんだよ、いったい ここどこだよ |
| 門前町のたたずまい、只事じゃないし |
| 「峠の一本杉の下の地蔵堂」とかなによ 戦前タイムスリップしたりするアレ? |
駿河一国十番札所
みちびき観音
焼津七福神霊場
弁財尊天
安産・子宝 母乳援授 乳観音
愚痴聞き地蔵尊
天台宗高草山法華寺
総花に盛りだくさん。
観音、地蔵、弁天…
まず天台宗なんだか法華宗だかはっきりしろよ。
| 馬やなんか引き込めそうな入口の奥に 日当たりのいい農家の縁側 |
いや地図には花沢って書いてあったし、そこ目指してたけどさ。
こんなんだとは夢にも思ってなかったレベルの桃源郷。
| 用水路だか排水路だかわかんないけど小川が集落に沿って下りてんだ |
えっ?
てなかんじで唐突ですがクリームブリュレとロイアルミルクティー登場。
でも幻想じゃない、証拠に向こうに地形図や軍手映り込んでるもん。
| 奥に民具的な調度も写ってますね |
明暗厳しいですが、さっきの部屋の外観はこんなかんじのナマコ壁土蔵。
エントランス内側から。
これまた馬通しそうな門自体が部屋になってるという。
| 季節の職人用の建屋の向こうに母屋の日当たりいい縁側とか |
| 用水路、石垣、家並 |
| もうおなか一杯 |
| 小高いとこから望めばすっきりした切妻のリズム感 |
| この家のわきの道、どこ続いてんだ 自重しましたけどやばい |
| 「オシャモッツァン」もわかんないけど、 覗き口と解説版を斜面に合わせて平行四辺形にした了見が異族 |
| さよなら花沢の里 |
こんな所にこんな里あるなんて思わなかったもん。
そりゃ大人気になるわ。
ここウロウロしてた小一時間にハイカー風の観光客十人近く行き会ったもん。
ぼくの行先じゃ滅多にないことだよ。
| 道も平らになり野焼集落に近づいてきました 本日の映り込みポイントはここですかね |
こんなボケーっとした百姓家の遠景(右奥)にそびえるのは、日本坂トンネルの管理棟、
その下の白い壁は国道150号の防音壁です。
| 左の道路は国道150号線 右の新幹線突っ込んでくとこが面倒くさい国鉄日本坂トンネル |
| トンネルの口見に行くのにトンネルくぐるトンネル三昧 |
| 近すぎ |
動画でどうぞ
| 神社の裏登って石部トンネル焼津側 |
| もいっちょ石部トンネル焼津側 |
鉄道唱歌と弾丸列車計画
鉄道唱歌の二十一番です
駿州一の大都会静岡いでて阿倍川を渉ればここぞ宇津の谷の山きりぬきし洞の道
「現安倍川」が「阿倍川」と表記されてる件については今回またぎます。
ここまで長々書いた通り、宇津ノ谷通ってないんです、鉄道は一度も。
鉄道は一貫して日本坂系の石部トンネル及び日本坂トンネルを通ってます。
宇津ノ谷に鉄道計画がまったく無かったわけでも無いんです。
軽便鉄道として日本一の営業距離を誇った藤相鉄道(藤枝-相良)が、
岡部まで延伸開通したのが大正14年(1925)1月16日。
このまま一気に宇津ノ谷抜けて安倍鉄道や静鉄取り込んで天下取っちまおうぜ、
という機運はあるにはあったんですが、
昭和恐慌を境に業績急降下、延伸どころか縮小方向で、
ついには昭和11年(1936)5月19日に岡部線を廃止します。
描餅レベルの話ではあるにはあったってことに過ぎません。
なので宇津ノ谷を鉄道が通ったことは一度もありません。
明治33年(1900)に成立したとおぼしき鉄道唱歌の時代ももちろん通ってません。
作詞者の誤謬です。
さて東海道線が静岡県を通ったのは明治22年です。
それまで静岡県の大部分は「陸の孤島」でした。
経済が廃れてたとか文明が遅れてたとかいう意味じゃないです。
人為的に僻地にされてたんです。
徳川宗家の駿府城があるが故に。
大井川、安倍川、富士川なんか架橋はもとより渡し舟さえ禁じられていました。
だから大変不便。
現代の感覚からすると東海道はえてして江戸幕府が整備した五街道の筆頭、
みたいな印象あるかもしれませんが、
御所と幕府を繋ぐメインルートは中山道だったんです。
あるいは小田原あたりまでは東海道使うけどそっからっは甲州抜けて中山道とか。
参勤交代だって親藩は東海道使って駿府城寄ってご機嫌伺いとかしてても、
外様は予算立てにくい川止めの出費怖れて中山道回りが基本です。
今だって本陣の規模見比べたらわかります。
それをいくらかでも東海道使ってくんねぇかなー、ってんで、
広重や北斎にプロモーションのポスター描かせたんです。
タダで書きに行きゃしませんよ。
「そうだ京都に行こう」ですよ。
十返舎一九に「東海道中膝栗毛」書かせたんです。
伊勢参り金毘羅参り富士講キャンペーンしつこくやったんです。
だから東海道の宣材がどっさり現世に残ってるってだけです。
「清水の次郎長」なんてのもそうです。
廃れ街道に流れ着いちゃったドサ回りの講釈師、飲む打つ買う面倒見て足止めして、
ヒマに飽かしてあること無いこと武勇伝吹き込んで自身と二十八人衆の宣伝させたんです。
「街道一の大親分」ったってその街道自体がマイナーなんですから。
北関東ゴロゴロいた、例えば大前田の英五郎とかの前行ったらヒヨコ扱いされる器なんです。
といって江戸時代いっぱい静岡が文化的僻地だったかっていうととんでもない話で、
京から江戸から職人引っ張り放題だったんですから。
贅尽くし放題だったんですから。
次の話題に入ります。
「石部トンネル」と「(鉄道用)日本坂トンネル」ついて。
さきほど鉄道唱歌についてチラ触れしましたが、
唱われた鉄道について。
そもそも日本の鉄道というと新橋-横濱間が始まりとなってますが、
同時期に神戸-京都間も施工されてたんですよね。
たまたま隧道も無く若干海に張り出す程度で工期完了した東京側が先に開業したってだけで。
で両線拵えてみたらえらい便利だぞ、費用対効果もすっげぇもんだ
これお抱えエゲレス人の言う通りだ繋いじまったらもっといいんじゃねえか。
ってことで繋ぎにいきます。
当初は当時の常識的な中山道ルート基本に明治17年(1884)に起工してるんですが、
鉄道ってのは急勾配急カーブに弱い、ってことにようやく気付いて、
明治19年(1886)になって東海道ルートに変更になりました。
この際、「じゃあ静岡平野と志多平野の間の山塊どう通すの」
って議論があり、最初は宇津ノ谷回す方向だったんですが、
結局は「海に近い方がルート的にも資材搬入的にもいいんじゃない」
ってことでできたのが石部トンネルです。
日本坂峠と大崩海岸の間あたり。
明治22年4月16日、東海道線全線開通と同時に供用開始です。
千年以上の時を経て、日本坂系が蘇った瞬間です。
ただこの石部トンネル、先述した(もうそれいつだよ)大崩に近い地質ゆえ難工事で、
開通後もたびたび崩れます。
でもそれ騙し騙し使い続けたんですけど。
そっから時代がずばーっと過ぎた昭和のヒト桁台。
大日本帝国の満州・支那進出に伴って、
東京から前線口の下関あたりまで、人員物資をじゃんすか届ける「弾丸列車」が構想されます。
東海道・山陽本線、もっとまっすぐにびゅいーんと高速度で通れる列車線作ろうぜ、と。
そこで山塊に対して取り付け角度も甘い石部トンネルとは別に、
日本坂山系にスパっとしたトンネル掘っちゃおうぜ、
として昭和15年(1940)9月に計画策定、掘り始めました。
同時期同様の理由で丹那トンネルも掘削開始しましたが、こちらは未完で一旦頓挫します。
丹那トンネルと不要不急で複線から単線化された御殿場線の話はいずれ。
弾丸列車用日本坂トンネルは、戦局悪化による計画頓挫の寸前に貫通しちゃったんですよ。
幸か不幸か。
でも弾丸列車計画は廃止です。
せっかく掘っちゃったんだし、石部(&磯浜)トンネル崩れやすいし、こっち通ろうぜ
ってんで東海道線こっちに付け直したんです。
これ「旧弾丸列車計画」を引き継ぐ「オリンピックに向けて新幹線作ろうぜ計画」まで、
弾丸列車用トンネルを東海道本線は通ってたんです。
んで東海道新幹線開通時に譲って元の道に戻った
という石部、磯浜、日本坂トンネルについてのお話でした。
| ここあんま上がっちゃダメ気味なとこです 旗振りさんも驚いてました |
道かなぁ、神社内の作業路かなぁ、って微妙な道が登ってて、
調査せざるを得ない雰囲気だったんです。
入ってみたんですけど続くんですよ、延々と。
こりゃ道だ、と。
でも1/25000地形図には載ってない。
| やや覚束ない部分もありつつ |
でちゃんと上の舗装路に接続してましたよっと。
登った先からの眺めですが、すべての日本坂系トンネルの口は
なかなか1枚に収められない、
だって石部トンネル引っ込んでるし、とかもろもろ。
特別オマケ
国道150号バイパス新日本坂トンネル工事中の昭和48年(1973)2月15日に落盤事故があり、
3名の作業員が亡くなっています。
この事故はほとんど公にされることなく工事は坦々と進み、
トンネルは翌年開通・供用開始となります。
当時の時代情勢やらなにやらで秘められた事故として処置されたので、
報道記録も無いと思います。
でも仲間たちや元請は慰霊碑を建立し、今も供養、清掃を続けている、
という噂は聞いてたんですが、偶然現物見ちゃいました。
前立ちやら何やら、二重三重に意図的に隠され、
ひっそりかつ堂々と建っていました。
埋もれることなく、明らかに手入れされた状態で。
探さないでください、供養する人たちが絶えるまでは。
さぁもうトンネルはお腹いっぱいだ。
ってか17時くらいには沼津警察署に行かなきゃだ、
今日そのために来たんだった。
とかなんとか道草食いながら焼津の駅を目指しました。
なんなら日本坂PAからバス乗ろうかななんてのも視野の片隅に置きつつ。
| 話しかけたらカカシさんでした |
| 屋根に通風の小屋造り ここもミカン屋か |
| 東益津村役場跡 焼津駅行くのになぜここ通る |
| うわぁー「拓高草谷」だって 知事とかの恥ずかしい石碑シリーズが幼稚園の敷地内に |
| 「太平洋岸自転車道」ってたしかさ、 軽便鉄道の廃線跡のアレ? |
| どこにでも現れるアイツ |
| なんかモザイクってか8bitってかそんな富士川鉄橋 |
| 沼津のココ なんかもう建物全体いい匂いするんだ |
でね、沼津警察署と手帳の件ですけど、
手帳のポケットに入ってた1年前の奈良のホテルの領収書から宿帳照会して
落とし主の携帯の番号突き止めたんですって。
まぁ怖い。
なんかのチョンボで落とし物係に回された元捜査課の暇潰しだったんでしょうか。
刑事案件でも無いのにあっさり宿帳開示した奈良グランドホテルにもびっくりだよ。
でもとりあえずこの週2回失くして2回戻ってきた不死身の手帳に驚いてんだ。
トンネルや街道の話、途中でどっか行っちゃったね。
長すぎてぐだぐだ。




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