秋田シリーズ堂々の完結篇、長かったな~、
今日もまだまだ長いけど。
1エントリに写真70枚くらいあるらしいですよ。ちょっとしたブラクラ。パケ殺し。
今日は十文字から雄物川町まで歩きます。
11日の道中は、ろくに歩道も無いとこにクルマの通行が多くてとにかく辟易しましたが、
今日はたぶんルート的にクルマ少ないんじゃないかと期待してます。
歩道あるとこも少ないだろうけど。
出立は9時半でした |
いちおう今日も「丸竹食堂」の前通ってみましたけど、店開ける気ゼロ。
十文字3日泊まって結局十文字中華そば食べれずじまい。
なんかいきなりいい感じの建ってますね 富澤公民會館 |
なんだろう、これって思って20秒くらいみつめてました 「ととのいましたー ふるさとの恵み」 |
なんか奥の方にまたすっごい球場みたいの見えますよ Field of dreams ですか |
「死亡獣蓄保冷施設」 そんなのあるんですねぇ |
立派な土俵 |
立派な土俵の向こうに立派な球場を遠望 |
遠くに見える球場もちょっと行ってみようかなとも思いましたが、よしました。
近くに見えて遠いんですよ、あーゆうもんは。
平鹿野球場、両翼100m、中堅122m、収容客数約10,000人ですって。
すごいなー、この辺歩いてる人もいないけど。
ま、国体用に作ったってんですから大いに結構です、僻む気ありません。
相撲場の方は十文字にもあったらしいです。
でも横手市のサイトにはこっちの平鹿相撲場が県内随一って書いてあるからそうなんでしょう。
この公園で巡業できるよね。
近くに屋外ステージもあったから「お楽しみ歌くらべ」もできるよ。
キャンプサイトに宿舎作れるし、山稽古もし放題。
この公園、
昭和48年から昭和55年 第一期 事業費1億3900万円 「あやめ園」「和風庭園」整備
昭和56年から昭和59年 第二期 事業費1億3900万円 池と滝、園路、休憩施設を整備
平成2年から平成4年 第三期 過疎活性化対策事業費3億1500万円 「あやめ園」滝を整備
ですって。
そろそろ僻みましょうか、さいわい誰もいないし。
なんかおもしろ看板立ってますよ。
直進↑ 忠義な猫の碑 |
☞ 忠義な猫の碑 |
「そこの木の陰のです」って。
これか! |
平鹿郡浅舞村(現横手市平鹿町浅舞)の伊勢多右衛門(1833~1914年)は慈善家として知られた。凶作などの時、困窮した民衆を救うため感恩講を組織し、倉庫に米を備蓄した。また人々に憩いの場を提供するため私財を投じて浅舞公園の工事にかかった。だが野ねずみが大量に発生し、倉庫の米を食いあさり、公園の樹木や側溝、堤などまで破損させた。多右衛門は深く憂いた。すると多右衛門が飼っているメス猫が、主人の願いをくんでねずみを退治した。1907年(明治40年)2月15日、猫は13歳で亡くなるまで、日夜ねずみ退治に明け暮れた。こうして民衆の命を守る感恩講の米は守られ、浅舞公園も完成した。多右衛門は、世にまれな、この忠義な猫の功績を後世に末永く伝えたくて、ここに碑を建立したのだった。
平成23年 5月20日 寄稿 : 小学校教諭 梁瀬 均ほーそーですか。
市では動画も製作してるみたいですね、あるんだか無いんだか再生始まらないけど。
猫がネズミ捕ってたってだけの話じゃんよ。
アレだ、大館生まれの犬が東京行って忠犬ってもてはやされて像の前に人集まってるって、
口惜しいからこっちは忠猫で人集めてやれ、って。
集まっちゃいませんが。
こりゃ集まらんわ |
お参りしときました。八幡様だそうです。
浅舞八幡神社 |
浅舞市街入りましたがカラー節約 |
ありました! 新発売 忠義な猫の招福猫サブレー |
立派な切妻物件あったんで撮ったんですけど 一軒おいた隣、「元祖 長まんじゅう」って看板が |
よくよく見ると、その三軒先にも「長まんじゅう」 |
浅舞には酒蔵2軒あるって聞いたんで、
ちょっと行ってみようかな、試飲してあれだったら買って帰ろうかなとか、
地図見て行きやすそうな「浅舞酒造」っての行ってみたら、こんな感じ。
浅舞酒造 |
このへんで11時半くらい、そろそろなんか食べとこうかな、店屋も開いたろうし、
この先ほとんど町らしい町無さそうだし、また食いっぱぐれるといけないし、
って探したんですけどどこもやってない水曜日の11時半。
「ふじた」 やってません |
新平川バス待合所 |
この辺のお地蔵さんって、みんな律儀に6体セットですね。
左:蛭野、右:大雄・高口 ってなってるので、ぼくは左に進みます。
この辺から左手の田んぼから、鳥が飛び立っちゃ行く手に降りるんですよ、たぶんアオサギ。
で歩いてくとまた飛び立つ。
逃げるんなら戻ればいいのに。それとも道案内ですか、導かれてるんですか、ぼくは。
でそっち方面の先の山のそのまた先、雲の下にでっかい山が見える。
たぶん出羽富士こと鳥海山。
ちゃんと写せた写真ないんでアレですけど、なんかいーなぁと。
山の向こうにもまだ山があるんだ、いつか行ってみてやる、とか、
昔の人は思ったんでしょう。ぼくは思いませんけど。
奥さん、それたぶんサギです |
なんかキュートな養豚場の看板 |
でね、突然このへんから道ばたに石碑が乱立してるです。
「耕心養国 秋田県知事 佐々木喜久治」 |
逆光でなんだかわかんないですけど たぶん「五穀豊穣」かと |
「天時雨澤 秋田県知事 佐々木喜久治」 |
どのくらい乱立してるかってとですね、
下の写真、左の木のとこが「五穀豊穣」、右の電柱の間が「天時雨澤」
その前の「耕心養国」から5分も無いようなとこに向かい合ってます。
横手市平鹿町浅舞字大樋とかのあたりです。
左が「五穀豊穣」、右のが「天時雨澤」 |
歩いて10分もしないうちに3連発。
誰も通ってないようなとこに。
なんか気になってググると、この先々代かなんかの知事 佐々木喜久治って人、
そこいらじゅうに石碑残してるみたいです。
盆地の農地だけじゃなく山の方のダムとかにも。
よかったですね、死んじゃっても方々に名前残せて。
遠目で「ビバ!花畑」って書いてあんのかと思ったら 「ヒルノ花畑」でした |
幾つ目でしたっけ、床屋の廃墟。
床屋廃墟@蛭野 |
きっとこの辺の人はAmazonでアタマ刈るようになりましたかね。
分かれ道の家の玄関先に いきなり墓場 |
地蔵堂 ほんときっちり六地蔵そろえるよなー |
おや、また地蔵堂ですか |
たぶん大中嶋から上中野の間だったんじゃないかと思います。
松の木陰にまた地蔵堂、と思ったらなんか様子が違う。
わら人形立ってるし |
夫婦っぽいですね |
で、後述の「雄物川郷土資料館」のお姉さんにこれ見せて聞いたら、
「あーそれカシマサマですねー」 って。
詳細はたぶん後述。
また道ばたに墓 |
ここなんか神社の鳥居前じゃん。
とかとか思いながらひと気の無い道を歩いてると、沿道から視線の気配が。
なんかいる |
飛び出しぼうやだー ってかオマエずるくね? |
「菊池金八郎」だそうです |
その人でしょうか。
よく見ると、脳天から口端にかけてヒビ入ってます。
大槻ケンジの元祖でしょうか。
ふと空を見上げたら、雲の形になんとなくデジャヴゥ。
いかん、ピントが無限遠までいかない |
カメラ叩いたら治ったけど、今度は陸が写ってなかった |
見上げるかんじの角度とかインパクトとか、そうだアレだ。
ほぼ雄物川町にはいりました。
入って最初の建物は沼館保育園でした。
ぼくは会塚という集落方向からテクテク歩いてきたので、こっちから入りましたが、
普通雄物川町には別の方面から入ります。
後から知ったのですが、この沼館保育園を昭和19年に創設したのは
当時の崇念寺住職の高橋義雄という人で、設立時は現在地ではなく崇念寺境内にありました。
この人は明治の終わりに洋画家を目指してヨーロッパを目指し出立、
行きは日本人の嫁を連れて行ったはずが帰りはなぜかロシア人の嫁を連れて帰ってきた人です。
そのロシア人嫁との間に産まれた息子は現在の崇念寺の住職をしています。
娘は後に神田ニコライ堂で大柄なロシア人と出会い結婚しました。
たぶん後述。
今、目の前に見えてる気がする田んぼは遺跡なの? |
木戸五郎兵衛村入り口 |
明治-大正期の民家・農家を4,5軒ほど移築保存してある公園なんですが、
こーゆうのは外面だけ見ててもしょうがないんだ。中に入れないと意味無い。
だってどうかするとその辺の集落に同時期の建物が現役で残ってるんだし。
中まで入れるようにするとなると入場料収入だけでは維持管理できないんだろうけど、
屋外保存だけだってカネかかるんだし。
そもそも町外れの県道バイパス沿いに唐突に建てたって誰も来ないし。
それ以前に雄物川町自体、観光客なんてほぼ来ないんじゃない。
いよいよ町に入りました。
雄物川町沼館というところです。
後三年の役の合戦もあった古戦場です。
ちなみに近くにはJR東「後三年」の駅もあります。ほんの12kmほど東に。
横手市ですらない、仙北郡美郷町です。華王錦の産地です。
ご利益いっぱいうれしいな |
またなんかわかんない史跡が出てきました。
市川團之丞の墓所、だそうです。
「鎌輪ぬ」の七代目團十郎の門下で「岡本新内」(岡本派新内とは別らしい)を創始した人、
みたいです。
さてこの辺で13時半頃、そろそろなんか食べなきゃいけません。
今日も結局朝からなんにも食べてません。
町に入ってすぐの食堂、やってません。
お盆だから仕方無いです。
おでん屋あったけどやってません。その後5時頃開いて焼鳥焼いてましたが。
お寿司屋、もうこれでいいや、盆地の奥の山辺の街の寿司、案外いいかも、
やってませんでした。
そのすし屋の脇から出てきたオバちゃんに聞いたら
「あら、じゃあ薬局の隣のタキザワ食堂行ってごらんなさい。ここら開いてるとこ他には無いから。」
ってんで行ったら薬局2軒もあったけど食堂見当たりません。
開いてる方の薬局に入って聞いたら、
「あ、そこ。隣。やってるかなぁ、さっきまではやってたけど。」
薬局と薬局の間の店、 言われてみれば食堂のように見えましたけど、もちろん終わってました。
8月13日(水)14時前の話。
もういい。いったん食事は諦める。
本日の目的地といえば目的地、スタルヒンの墓に向かいます、って滝沢食堂から2分で到着。
崇念寺の入り口 「スタルヒンの墓」ってバナー立ってます |
お寺入るなり迷うことなく発見 |
「栄光の名投手 ヴィクトル・スタルヒンの墓」 1916-1957 |
あるいは「歴史と二国間の関係に翻弄されたアレ」ってな位置付けです。
なんか綺麗ごとばかり書いてありますが、たいへんアレな生涯だったと思います。
ヴィクトル・スタルヒンは1916年、エカテリンブルクの北100km余のニージニ・タギル生まれです。
翌年いきなりロシア革命勃発。
親族に帝室付武官がいたが故に一家はボリシェヴィキに迫害され、東へ東へと落ち延びます。
大陸からはみ出しサハリンへ、ついには北海道旭川まで至り、
ここで一家がつかの間平安の地を得たのが1925年のこと。
なにぶんほんの20年ほど前に日本はロシアを負かしましたから敗戦国の一家です。
それでも当時の日本、北海道は度量があった。
非公式亡命で無国籍だったヴィクトル少年をなにも言わずに小学校・中学校と受け入れました。
でも敗戦国から亡命してきた子、学校ではイジられキャラだったそうです。
それでもいつもニコニコ受け流し、みんなの後ろを嬉しそうについていく子だったと。
ざっくり琴欧洲イメージしてもらえればいいかと。ぼくはそうしてます。
そしてその間両親はロシアパンを焼いて売ったりして生計を営みました。
ヴィクトル少年も授業が終わればすぐに売れ残りのパンを持って近所を売り歩きました。
街中を回り終えると、同級生らがいる河川敷に回ります。
同級生たちは野球にこうじています。
ヴィクトルはルールもわからず、それでもニコニコ見ていました。
同級生たちはお腹が空くとヴィクトルくんちのパンを買って齧ります。
そのうち、「お前、ガタイいいんだから、ちょっと打ってみろ、投げてみろ」となります。
たぶんね、たぶんだけど、クリチコ兄弟とか、ヒョードルとか、大鵬父とか、ヴィクトル古賀とか、
そんなコサックの血が流れてたんじゃないかと、たぶん。
いきなり途轍もない身体能力を炸裂しちゃったわけです。
それからルール習って基礎練習して、旧制中学入る頃にはいっぱしの野球選手だったと。
後年ですが留萌で野球覚えて旭川に移った北の富士をイメージ、しなくていいです。
ところで両親の商売はそのうち軌道に乗って、一軒のミルクホールを構えます。
たしか常磐公園近くのあのロータリーの近く、ずいぶん以前に跡地の銘版を見た気がします。
支店みたいなカフェーも増やしてたんじゃなかったかな。
そこで大事件が起こった、と。 ほんとに起きたのかでっち上げだったのか、
今となっては誰にもわかりませんが。
ヴィクトルの父、コンスタンチン・スタルヒンが従業員を殺した、と。
ロクな裁判も無いまま、無国籍人の父は獄門につきます。
残ったスタルヒン母子は、どうかするとボリシェビキ待ち受けるソヴィエト連邦に強制送還です。
当時日米野球で連戦連敗の苦杯を舐めていた中央球界の、
警察官僚上りの正力松太郎らによる嵌め手であったとも言います。
職業野球からの誘いを断り続け、旧制旭川中学でトモダチと一緒に甲子園に行き、
早稲田への進学を夢見ていたヴィクトル少年の人生の舵はここで大きく切り替わりました。
「そつぎょうまで プロには ぜったい いかない☆ みんなで コーシエンに いこ☆」
その約束を守れず、誰にも告げず、スタルヒン母子は人目を忍んで夜汽車の席に着きました。
着の身着のまま夜逃げ同然、ロクに荷物もなく、
ただ膝の上に握り締めた友達から貰った木彫りの熊に、ボタボタとヴィクトルの涙が落ちました。
そして日米野球日本チームに帯同、
そのまま大日本東京野球倶楽部(2年後の東京巨人軍)に入団、
その後の活躍は輝かしい碑銘の通りです。
戦時中に敵性国人名から「須田博」への強制改名、軽井沢への隔離収容など、
強引な引き抜きの割りに巨人軍からの庇護は冷ややかだったようです。
巨人軍への忠誠なんか無かったんでしょう。
ただその巨人軍入団直後の監督、藤本定義には良くしてもらい恩義を感じていたようです。
戦後再開したプロ野球でもパシフィック、太陽ロビンス、金星スターズと藤本に着いてきます。
その頃も登板のたび、ベンチには必ず例の「木彫りの熊」を携えてきていたと。
そして1957年のオフ、おりしも東京都内で行われた旧制旭川中学OB会の当日に、
その会場に向かうまさにその時に「謎の死」を遂げます。
旭川時代のヴィクトル少年 |
ヨメの実家であるここ崇念寺に弔われた、と。
はぁ~良かった、雄物川町の話に戻ってこれた。
このヨメの出自と馴れ初め、その父である先代崇念寺住職高橋義雄氏の波乱の人生なんかについては、やってるとキリがないんで割愛。
さて、墓前に来てみたものの、供える線香もございません、店やってねんだから。
で、ひと気の無い本堂脇のインタホン鳴らして人呼び出して聞いたらジジイ出てきて
「あー、お線香なら本堂にあるの持ってってくださいね」
って言われちゃって、仕方ないから本堂上がって一束もらって、
うーん、こーゆうの相場判んないんだよなー。
ウチの墓参り行く時、100円とか書いてあるとこ二束で千円とか五千円とか置くもんなー、
とか悩みながら置いたのが200円。
ヴィクトルとその夫人ターニャ久仁恵スタルヒンの墓碑銘 建立した娘のナターシャさんは現在美容コンサルかなんかしてます |
お線香をあげ、帰ろうとしたところ、さっきのジジイに呼び止められました。
ジジイの正体は、ヴィクトルのヨメの弟である現御住職の高橋大我様でありました。
いろいろ資料を頂き、お話を伺いました。
去年ロシアから撮影チームがやってきて、スタルヒンの伝記映画が製作されているそうです。
そろそろ完成して今年中には日本でも公開されるかも、と。
スタルヒンの愛娘ナターシャさんがその辺コーディネートしてるそうです。
そんな話の中、
「ところで例の"木彫りの熊"は、今どこかにあるんでしょうか?」
と訊いたところ、
「さぁ~、聞いたことありませんねぇ」 だって。
撤収。
本堂の左の突き当たりね |
バスの時間まで2時間以上あるみたいだし。(後で気付いたけど快速バスがもっと前にあった)
ってか何でもいいです、何か食べたいです。
また床屋の廃墟だよ |
「女ズン」ってなに? こっちじゃそうゆう何かがあんの? |
佐々運酒店、開いてた、助かった 外見新らし目だけど中は古い店 |
おにぎりでもサンドイッチでもいいや、なんかあるでしょ、助かったー
けど廃墟でした。
食いっぱぐれたままトボトボと雄物川町郷土資料館とやら入って時間つぶし。
市の紹介文では
雄物川郷土資料館は、県指定の玉類をはじめ、歴史・考古・美術・民俗・自然の各分野にわたって展示を行っている資料館であり、横手市内の資料館施設の中心施設に位置づけられています。ってなってますけど、またとりとめも節操も無い市民の物置みたいですね。
「各分野にわたって」って物は言い様ですね。
ところが驚いた、奥入って展示眺めるうち、こりゃ大変だぞ、と。
火焔土器 レプリカとかじゃなく実物 |
火焔土器、部分ならゴロゴロある |
遮光器土偶も部分なら現物がある |
遮光器土偶、 部分だけど、むしろ両足揃いは珍品かも |
石鏃、土産物屋みたいにある この写真、開架展示してるうちのほんの一部 |
石匙、石箆もいくらでもある |
さらっと岩偶も |
このへんってか東北一帯たしかかに縄文遺跡ゴロゴロあるんだ。
で平安期末の戦乱の舞台になった以降はコレといって何事も無く田畑だったんで、
掘ればいくらでも歴史が重層になって出てくる。
特にこのエリアは後三年の役の古戦場だったんで、いろんなもんが出てくる。
とはいえ出過ぎ、並べ過ぎ。
入館料100円だったし、もーこの時点で元は取ってた。
でもまだ終わらない。
横庄線の遺物とかもろもろあったんだけど飛ばす。
浅舞八幡様のご加護かスタルヒン供養の御利益か、
ここで若瀬川登場。
若瀬川栄蔵(1903-1990)の化粧まわし他 |
Wikipediaに書いてないようだから補足しとくけど、この人も本名は佐藤さん。
先年の桐山部屋の閉鎖で絶えた「○瀬川」の始祖。
ちょっと嘘。その前にいた清瀬川敬之助の手引きで角力入りしたんだから。
清瀬川が旧伊勢ヶ濱部屋を興して以降、
照國、清國、幡瀬川、と横手湯沢のいわゆる秋田県南部伊勢ヶ濱勢の台頭があった。
その一時代を担ったのが、この初代若瀬川。
「清瀬川」とか「若瀬川」って川は無いんだよな、たぶん。
「皆瀬川」とか「成瀬川」って川はあるよ、この辺。
みんなまとまって「雄物川」になる元の川。
あーあと「瀬川」って苗字はやたら目立つ。
とにかく忘れてた。ここで見るまで「秋田の○瀬川」の件。
前の写真のケース、裏に明荷とか稽古廻しとかあんだけど 隙間に首突っ込まないと見えない展示 |
化粧廻し着用の写真だ 「秋田縣有志」贈なんだな |
「二十四代式守伊之助」の銘が添えられた御幣 |
謂われも箱書きもなく、ただ「大和谷長右衛門氏寄贈」とだけあったんで、よくわからないけど、
二十四代伊之助は旧伊勢ヶ濱一門の朝日山部屋の人、
こないだまでいた正直(まさなお)の師匠だから、なんかその辺の繋がりかしら。
さて、別室が民俗系というか、農具民具関係のガラクタ集めた部屋があって、
そこで居酒屋の船盛りに使うような舟形の上に無造作に一対の藁人形が置いてあって、
ん?これさっき見たぞ、って思いましたよ。
で、券売兼もぎり兼案内兼監視兼学芸員みたいな、
要するに館内唯一の職員みたいなお姉さんにさっき撮った写真見せて訊きました。
「あーこれカシマサマですね」
「集落の入り口に置くんですよ。災厄や疫病が入り込まないように」
あとからジワジワきました。
「そうか、カシマサマ」なのか、と。
ぼくが道中見かけたカシマサマは30cmかそこらのかわいらしい夫婦でした。
大きいのは大きいらしいです。4~5mもあるとか。往年の「大魔神」みたいに猛々しいお姿で。
でも立ってるだけなんですよね。
強制力をもって異者を阻止したり排除したりするわけじゃない。
入りたければ入ってもいいけど、何も置かず何も取らずに出て行ってくれ、的な。
なんとなくこの数日感じてた秋田人の気概というかなんか。
ぼくはこれを「こころのカシマサマ」と名付け、この後は心に留めてじんわり楽しみました。
ほっといてくれていいから。
押し売り要らないから。
要るものあったら自分たちで獲得してくるから。
ちゃんとやってるから大丈夫。
なんか秋田の人たちのよく掲げる「自主・自立、共働・共助」の精神を涵養している原点というか。
秋田を秋田たらしめ、秋田の魅力を醸すのは、この精神性ではないかと。
これからも秋田の人たちには末永く「こころのカシマサマ」を大切にして頂きたい、
と思いました。いやほんとに。
まだバスの時間までたっぷりあったので空腹がなんとかならんかと町の人に聞いたら、
マックスバリューがあるというじゃないですか。先に教えてくれよ。
行けばきっと弁当・惣菜なんかしらあるだろうと駆け込みました。
入るなり、レジから駐車場へ続々と、寿司やら刺盛りやらオードブルやらカートに山盛りしたお客さんが出てきます、よしっ。
ところが弁当・惣菜売場は臨時編成で、本日はすべて予約販売だそうです。
お盆に集まる親族を迎える支度で街中てんてこまいみたいです。
なんとかヤマザキのカレーパンとトップバリュの麦茶売ってもらえました。
思えば秋田入って最初の食事もラッキーのピザと唐揚げでした。
その頃、17時近くになってましたけど、
それまでクルマばかりで歩いている人なんかほとんど見なかった雄物川の町に、
やたらと歩行者が、それも集団で現れだしました。
みんな手に手に水桶や花束を持っています。
家名の入った提灯持った人もいます。
どうやら一通り集まったので揃ってお墓参りタイムのようです。
ひとりぽつねんとカレーパン齧りながらバスを待つほんの10分ほどの間にも、
何組もの一族が通って行きました。
横手駅行きのバス着たので乗りました。またしても乗客はぼく一人です。
安全鉄則 まんづ止まれ |
運転手さんに聞いたら、
「まだまだ大きいのもありますよー」
「え、この道筋にありますか?」
「いやー、この路線には今ので終わり」
その間にも乗客は乗ってきたと思えばすぐに降り、道中のほとんどはぼく一人でした。
そりゃそーだ こんな朝1本、夕に2本のバスなんて誰が乗るもんか |
道路運送法第二十八条の1違反です。
「またずいぶんゾロゾロと墓参りが歩いてますねえ、みんなこの時間行くんですか?」
「うーん、集落によっても違うんじゃないかな、ウチは昼に済ませたなあ」
「こんなに人が道歩いてることってあるんですか?」
「うーん、一年で一番運転気を使う日かもしれませんねえ」
横手駅に近づいてからは、同じ道を別系統のバスも通るんでしょう、いくらか乗ってきました。
横手駅到着。
予約してた駅前のホテルにチェックイン。
なんだこのホテルは。半分廃墟。
入り口の軽食ラウンジは営業してない。
フロントは呼ばないと人が出てこない。
エレベーターは1基を残し停止。
部屋のエアコンはオンとオフしかない。
Wi-Fi完備とかって使えるのはフロント前のどっかから拾ってきたような応接セットの場所のみ。
その他もろもろ。
シャワー浴びて外に出ました。
横手駅周辺ぐるっと一回りしたけど、ほとんど店やってません。
バスターミナルと一体化したユニオンという複合商業施設があるわけですが、
その中の秋田銀行と北都銀行のATMがあっておカネ下ろせた。
これは助かった。でも日本円使える店が無い。
ユニオン内も上部階はほとんど空き店舗のようですが、
1階にはアックスとかいうスーパーが入ってました。
なんかあるかと入店。19時前ですが蛍の光が鳴ってました。
こりゃまた秋田最後の晩餐は駅のNEWDAYSですか、と思ったところで、
七兵衛という店が開いてました。
他に店が無いからか、たいそうな混みっぷりでしたが、
こういうときは一人の強み、カウンターになんとか入り込めました。
売りはいろいろあったようですが、
その中からとりあえず「比内地鶏の焼鳥盛り合わせ」と
「当店手作りの えご」というものを頼んでみました。
これがその「えご」 |
海藻の風味が利いてて美味しかったです。
後ろの小上りに10人くらいの団体がいたんですが、
二十、三十代の男女ほとんどにオジサンが一人。
地元の話をしてるようで、みんな標準語。
なんかのついでに訊いてみたら、地元高校の部活のOB会だそうです。
道理で、と納得するものの、
「ほんと、皆さんきれいに標準語ですね。方言は出ないんですか?」って聞いたら、
「最初だけですよー、お酒回ってきたらバンバン出ますよーw」
なんて言ってましたが、ぼくが帰る頃まで全員きっちり標準語でした。
この店は横手焼きそばでも大変有名な店だったようです。
カウンター越しに客と店主らしき人の話を聞くともなく聞いてたんですが、
「近頃は横手やきそば名乗る店もずいぶん増えてきたけどねー、決まりごとってもんがねー…」
「うちは古いから。二軒目だから」
とか色々語っておりました。
ならばと思い、シメは本場の名店で横手やきそば食べようかと思いましたが、
隣に運ばれてきた横手やきそば見たら、なんかベチャっとしたかんじで、
おまけに半熟みたいな目玉焼き乗ってんの。ぼくタマゴ嫌いなんだよ。
で、ふとカウンターの上見たら、「十文字中華そば」ってありました。
十文字に3晩泊まって結局食べられなかったあれ。
決まりです、注文しました。
「ウチのはね、横手で唯一ホンモノの十文字中華だから、」
とかよく意味の通らない自慢してましたから、ホンモノなんでしょう。
これも美味しかったです。念願かなってがっついたから写真撮ってないや。
横手でこれなら、十文字でもいくつか食べ比べたかったです。
駅にあったポスター 書体といい色使いといい迷いなく、なんでこんなかっこいいんだ |
翌朝早くに横手を発ち、とっとと東京に帰ったんですが (嘘。宇都宮に寄り道した)、
この5日間の結論としてですね、
招かれてるとか実家があるとかじゃなけりゃ、お盆前後の秋田には決して近づくな
ということです。
生死に関わる大事なことです。
お盆や正月以外の時期に、きっとまた行きたいな、と思いました。
この写真、なんだっけかなー、思い出せない 「忠義な猫」の 伊勢多右衛門かなー? |
木彫りの熊を見るたびに
その名を思い出せ
奴の名はヴィクトル・スタルヒン
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