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火曜日, 3月 10, 2020

国鉄、とか鉄道省とか日本鉄道とかのデタラメが東京の地名を蹂躙してた件

今回あえて「高輪ゲートウェイ」については一切触れませんよ。


土地鑑無い薩摩や長州の田舎っぺが江戸以来の地名地称を無恥無神経に踏みにじった一群の話の一端。

まずは豊島区が日本鉄道のデタラメをカサに文京区の町名を強奪した例から

目白

目白と言えば年寄りなら全国区的に連想されるのが田中角栄の「目白御殿」。
あれは室町時代から続く三管領家の細川氏の屋敷の一部を割譲してもらって建てたもの。
角栄もまさか細川の坊ちゃんが第79代内閣総理大臣になるとは思っちゃなかったろに。
細川家の地所は和敬塾として分離独立させたり、物納で文京区立肥後細川庭園や目白台運動公園になったりしたものの、未だ永青文庫としてほんのり残ってる。
角栄目白御殿も相続の際に一部を物納して運動公園のテニスコートとして活用されてる。
ポンジョこと日本女子大学目白キャンパスも、
これらが常識的に言う「目白」
なのに行政的には「文京区目白

google mapから
色が薄くなってる辺りが「豊島区目白」
赤丸は戦災のどさくさで不動像が豊島区高田に持ってかれるまで江戸五色不動の一つ「目白不動」があったとこ、今の住居表示では「文京区関口」。
その間あたりが「文京区目白」。


日本鉄道が1885年、赤羽ー品川間、市街化されていない未開の土地を買って線路繋いで郡部にこさえた途中駅に目ぼしい地名も無く最寄りの名所の名を借りて「目白」と名付けたのは百歩譲って許せなくもない。
東京市15区時代には豊多摩郡だった豊島の野良が、35区に拡大されて吸収されるドサクサに、小石川区の台町とか老松町とか青柳町とか各々町名を固守していた目白一帯を出し抜くように、新規参入豊島区が「だって目白駅があるもん」ってだけで「豊島区目白」を謳った。地名を乗っ取った。
なので昭和4~50年代の住居表示再編の諸町名まとめる際に文京区側はやむを得ず「目白台」と称した。

歴史ある本来現文京区の地名を省線国鉄の威光を借りて豊島郡が盗んだ例は続く。
パターンなので、なるべく詳細は省くよ。

大塚

地理院地図から。

だいたいざっくり黒い線で切った切った上が豊島区、下が文京区。
ここも旧来より市街地たる本来の駒込地区を避けて、用地の安い郡部に線路敷いた日本鉄道が無責任に駅名「大塚」と名付けたばっかりに、市制内に編入されて調子に乗った豊島区が「線路の北は北大塚、南は南大塚」と称した結果、
南大塚の南が「文京区大塚」になってしまった例。
京急の「品川」から南に一駅行ったら「北品川」の例に似て異なるけど面倒だから今回は触れない。

駒込


これもまた豊島郡の名も無い野良に設置した駅に、直近の名のある地名「駒込」をつけて、現豊島区が駒込称したせいで、地図で白っぽくなってる文京区側の本来の駒込が略して「本駒込」とせざるを得なかった例。
詳細略。


「鶯谷」ってのはさ、今で言ったら「夕焼けだんだん」の谷中銀座、あれの一本二本南の蛍坂とか防災広場とかの一帯を言ったんだ。
それが丘まるまる一つ斜めに越えた、谷でもない岬のヘリみたいとこに駅作っといて鶯谷とはなんだろね、とかもあるんだけど。


「品川駅」は港区で、「目黒駅」は品川区、「旧目黒駅前郵便局」は港区なんてのは、まー今回いいや。

北千住

「北千住」なんて地名は今も昔も無いの。
千住が発展したんでその手前、千住大橋の内側が「南千住」称してはいるけど。
これもまた院でも省でも国鉄でもなく日本鉄道がやらかした話なんだけどさ、南千住から北に進んだ次の駅だから「北千住」って名付けたの。
あそここそ「千住」なのに。

かつての町名に「千住北組」ってのはあったけど、それはあくまで千住の各丁の一つ。

だから昭和生まれの千住っ子は地元を「北千住」とは名乗らない。
最寄り駅が北千住なのは認めるけど。
三田の子が「田町です」って言わないのと一緒。
下手すると住所氏名欄に「千寿」って書いちゃうくらい。
近頃続々のマンション系住民は「北千住」と名乗って抵抗無いんだろうけど。



うわ、やべぇ。
これキリ無いや。
「田町」も「新橋」も「秋葉原」も…
地元の実象を知らない鉄道省や国鉄が無責任につけた駅名がその後に及ぼしたもろもろ。

「御茶水」 「高田ノ馬場」
ほら気持ち悪いだろ。

木曜日, 9月 07, 2017

赤青鉛筆についての覚え書き


"The pen mightier than the sword"

mightier:might(力、権力、腕力)の比較級


via:Fred's pencils

赤青鉛筆または朱藍鉛筆、二色鉛筆の話。
ドイツ語では"Zweifarbstift"です。
そう「文房具」という言葉がドイツ語の"Buromaterial"の直訳であるように、
二色鉛筆もまたドイツから入ってきた、
もしくはドイツに代わって製造されるようになった、といった話になる予定。

そもそもは「赤青鉛筆は平和と文化の象徴」のような言質を見かけて、
うんそうだよな、まったく間違ってない、
少なくともちょっと前までの現代においては、
と奥歯に物の挟まったような感想を持ったのがきっかけで、
ざっくり整理しておこうと。


少し前まで赤青の二色鉛筆は編集・出版の世界では欠かせないものでした。
赤は訂正・校正用、いわゆる「赤字入れ」に使われます。
青は旧来の写真製版では拾われない色なので、
版下やまんが原稿の指示書きに使われます。
同様の理由で筆跡の保存を旨とする卒業アルバム用に青罫の原稿用紙が使われ、
青罫方眼紙なんてのもありましたね、過去には。
活版ガリ版プリントゴッコすら消えた現代では趣味道楽以外で使われることはありません。
なので赤青鉛筆は文化の象徴たる出版の、
それも作り手の象徴としての位置を占めていたのです。
もっとも出版物の中でも競馬新聞などでは受け手の象徴のようですが。


しかしもともとこの赤青二色が一体となった鉛筆は、
血腥い戦場、から遥か離れた血腥くない参謀本部の作戦室のニーズで生まれました。
遅くともすでにナポレオンの頃から図上作戦に鉛筆が使われていました。
作戦将校たちがいちいちポケットから鉛筆を出したり入れたりしてるのに
業を煮やしたナポレオンは「そんなもん始終肩から吊っておけ」と命じます。
将官の象徴である飾り緒、あるいはモール、Aiguilletteの始まりです。
なので当初下士官、兵は着けませんでした。
現在では儀仗兵や番兵でも着けます。
そして鉛筆ストラップとしての実用を離れ儀礼装飾となってからは
緒の先の飾り金具は16世紀まで使われていた鉛筆の御先祖である、
先込め式黒鉛ペン(すでにPencilと呼ばれます)を模した形になっています。

via:US Militaria Forum
さて、作戦図では一般的に自軍及び同盟勢力を青で、敵対勢力を赤で示します。
ソヴィエト連邦軍や人民解放軍は自軍を赤で描いていたという話もありましたが、
たぶんガセです。
二本の色鉛筆を取ったり置いたりするのが煩雑なので、一本にまとめられないか、
ということでおそらくドイツで生まれます。
19世紀終わり頃にはあったようです。
これは20世紀半ばを描いた21世紀初頭製作の映画
「ヒトラー~最後の12日間~」のトレーラーですが、
ヒトラーが二色鉛筆を叩きつけています(1m04sあたり)。
映画の話ですが考証は取ってる、んじゃないかなあ。


ドイツ製赤青二色鉛筆は世界中を席巻するのですが、
1914年に始まる第一次世界大戦(もちろん当時は誰も「第一次」だとは思ってない)
の開戦、それに伴う海上封鎖、経済制裁でドイツの鉛筆はドイツ国外に払底しました。
ちょうど期を一にして同年眞崎市川鉛筆株式会社から
「月星印朱藍色鉛筆」が売り出されさっそく輸出にも回されます。
二色鉛筆に限らず当時鉛筆といえばドイツ製を最高とみなされてましたが、
それが禁輸となって代替生産国として日本にお鉢が回ってきたのです。
以後数年間、日本の鉛筆輸出量は空前となります。(絶後ではない)


ふとここで、現在の二色鉛筆の趨勢について気になったので、
三菱鉛筆のWebさいとから当該のカタログページを見てみました。
赤青ではなく朱藍とこだわっております。
朱7:藍3なんての、やっぱまだあるんですね。
画材としての色鉛筆は尖った面と磨られた面とを自在に使い分けられるよう丸軸が求められます。
しかし前述の編集作業等には筆記具としての六角グリップが求められます。
朱藍5:5と朱通しは六角がラインナップされてますが、あとは丸軸、
興味深いですねぇ。

先述の眞崎市川鉛筆ですが、明治20(1887)年眞崎鉛筆製造所として創業、
のちに吸収や合併を経て現在の三菱鉛筆㈱となります。

眞崎といわれて真っ先に思い出すのは帝国陸軍大将眞崎甚三郎ですね。
皇道派の首魁として二二六事件を惹き起こし、本人は無罪で予備役蟄居、
のちの東京裁判でも逮捕されるものの不起訴と逃げ切りながら、
事件を機に皇道派は統制派も海軍も政府も世論も抑えこみ、
無謀な対英米開戦のみならず
作戦図の赤の無い地域に青の本隊だけを押し進めて兵站を繋がず、
空白域は援蒋ルートと称して狂ったように赤鉛筆で塗りつぶし、
みすみす200万からの将・兵・民を犬死にさせ、
さらにそれを遥かに上回る他国兵・民の命を奪った元凶さんですね。

三菱鉛筆の源流「眞崎鉛筆」の創業者である眞崎仁六は1848年佐賀の生まれ、
1876年同じく佐賀生まれの眞崎甚三郎の父の名は眞崎要七
なんか関係あんすかねぇ。


とかなんとかを踏まえて冒頭の格言を「ペンは剣よりもキョーレツゥ」と解すると、
あ~なんだか切ないですねぇ。



月曜日, 3月 13, 2017

桑畑の地図記号がなくなってた

讀賣ライオンズじゃありません


いささか旧聞に属する話のようですが、
ぼくが気付いたのは多忙を極めた今日の日中のことなので。
眼休めに国土地理院1:25,000地形図「五日市」をつらつらと眺めてたら、
懐かしいヤツと再会、
檜原村役場の正面の丘に地図記号「桑畑」が。


ちなみに桑畑を囲んでる点線はぼくが書き足したわけじゃありません、
「植生界」といって土地利用の方法が異なる境目を示すどマイナーな地図記号です。

道が所々水色に塗られてるのは、1月末にここいらを通ったからだ。
見てくりゃよかった。

かねてより、
「もう要らねんじゃね? 桑畑の記号」
「約4,400面出てる2万5千分1地形図のうち、いったい何面に登場すんのよ」
「だいたい、あそこに桑畑が見えるから現在位置はここだな、とかわかんないし」
「そもそも測量・踏査する技手もそろそろ桑畑なんか知らないんじゃねーの」
といった廃止論はたびたび出ており、
それに対して
「いやいゃぃゃ…茶や蚕糸は大車輪で富国化を担った立役者なわけで…」
とか弱気な反論が蚊細くささやかれてた程度だったわけです。

でもこうして今も現役で使われてるのを見ると心強い。

同じ「五日市」図の北西端の神戸(かのと)、大沢あたりにもありました。

「五日市」 平成25年6月1日発行 北西端拡大
つかここ通って「郷土資料館前」(大沢の字の下の長い建物)からバス乗ったのは
ほんの3日前だ。
あー気付いてたら覗きに行ってたよ。

で、ここは「五日市」図の左上の隅に当たるので、近隣の地形図と重複します。

「武蔵御岳」 平成25年6月1日発行 南西端拡大

隣接する別の地形図ですが同じ場所です。
「植生界」の点線も健在です。
最初の役場前も含め、桑畑は北向き斜面に設営されております。
で、近隣の他の図絵も北斜面を中心に目を皿のようにして探したんですけど、
そうそうはありません、桑畑。
なんたって錦糸産業の都「八王子」の地形図にも見出せませんでしたから。
でもさすが檜原村は時空が違う。

なので重複してるであろう同じ「神戸・大沢地区」を別の地形図で確認しました。

「奥多摩湖」 平成25年11月1日発行 南東端拡大
ん? 無い!
同じ場所なのに「畑」の記号になってる。
「植生界」のくくりも無い。

「猪丸」 平成28年1月1日発行 北東端拡大
無い。
やっぱ単なる「畑」になってる。


どれも最新の現行版地形図ですが、最終改訂時期が違う。
平成25年の6月から11月の間になにかあったらしい。

H25.06.01発行の「武蔵御岳」の凡例には「桑畑」載ってる。

H28.01.01発行の「猪丸」の凡例には「桑畑」が無く新しい諸々が載ってる

「新しい諸々の地図記号」には異論も無いんですけどね、
なにも殺すこたないじゃない、桑畑。
そりゃさ中学入試とかに出題されたら今どきいくらなんでもひどいだろ、
っとかは思いますよ。
何年か前、桜蔭中がニホンメダカの生態観察記に基づく出題してて
あのそれ絶滅危惧種なんですけどって憤然シオシオになったくらい。

ってかここいら奥多摩町、日の出町、檜原村のとんでもない奥地に
新設された「老人ホーム」の地図記号がやたら頻出しててむごい。

北東/北西から合流したのち南下して折れてヨタる神戸川の流跡が
老いさばらえ野垂れた「桑畑の地図記号」の死にざまに見えたり。

とかなんとか示唆に富む絵図を見てるうちに5時間くらい消費しちゃったよ、
あー今日も忙しかった。

 

土曜日, 4月 25, 2015

人工衛星や小惑星の距離 地球やなんかの大きさ 4/4

いよいよシリーズ最終回。前回分書いてる途中、あれ、これ3回で終わっちゃうんじゃない? と心配になってきたんですが、書くこと思い出しました、無事4/4までまっとうできそうです。実際は4回目あらかた書き上げたとこでJAXAへの文句とか日本の宇宙開発とかへの愚痴が長々続いて気持ち悪くてバッサリ捨てて書き直してるんですけど。いくらかほんのり残るかもね。


前回は千万分の一の地球儀を用いて地球・月・太陽の大きさや距離について書きました。
今回も同サイズの地球儀を時々使ったりしながら地球を取り巻くあれこれの寸法を書いていくつもりです、今のとこ。

なのでおさらい画像を2点。
千万分の一の地球はこんなサイズ
縮尺換算の目安


さて、今回はISSからまいりましょう。

ISS:国際宇宙ステーションですが、これがどんな軌道で飛んでるかと言うと、半径6,780kmくらいです。
地表から数えると400kmちょっとです。
てことは千万分の一、直径1.27mの地球儀で言うと、4cmくらいのとこです。

400km幅の黄色い帯であらわしてみました。

ISSの画像を不適当なとこに不適切な寸法で貼ってみました

この黄色い帯の外側に沿ってISSは周回しています。
それだけじゃ絵面的に寂しいんで、サービスでISSの姿を置いてみました。
エンデバーがドッキングしています。
撮影日が2011/05/23とのことなので、退役ミッションですが、誰がどこから撮った写真でしょうね。

こんな近いのに「宇宙」だったり「真空」だったり「無重力」だったりするそうです。

前々回、ノートにコンパスで一億分の一のの地球を描き、凸凹や歪みもすっかり0.5mm幅に収まるよ、というのをやりました。
では宇宙ってどこから宇宙なんでしょう。地球の大気ってどのくらいの厚みがあるんでしょう、と。

「ここから先が宇宙」というラインは特に決まっていません。
気象、天文、航空、軍事、宇宙開発でそれぞれ便宜的になんとなく決めてるだけで、厳密に決めたところで今のところ例えば人工衛星がある国の領土上空を通過したところでそれは領空侵犯とは言わないよ、何キロから下が領空とかも特に決めてないけどね、と、そんなところです。

一応地表から100kmを目安にカーマン・ラインというものがあるにはあるんですが、特に政治的にも軍事的にも科学的にも重視されてるわけでもありません。

「大気圏出たら宇宙でしょ」
大気圏の定義もあやふやです。
地球大気の成分自体は、とっても薄いですが、とんでもなく遠いところまで及んでいて、半世紀前のアポロ計画、ルナ計画で地球-月間をしばしば往還していた頃には既に「地球-月の中間点でも地球大気成分が検出される」となってますから、大気成分がある所=大気圏とすると、とても無意味無用な範囲設定になります。

以下しばらくは今回深入りしたくない無用な話ですが、
大気圏自体は、そこで認められる様々な成分構成や事象を元に5層に分類されています。
下から順に対流圏、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏、と。
対流圏は海面等から巻き上がる水蒸気を含み、またその影響で様々な気象現象が起きる層、すなわち「雲の出るところ」としてザックリ10,000mくらいまでとされています。
成層圏にも特殊な雲は出来るんですけど、水蒸気以外に硝酸や硫酸を核にした、ほんと特殊な雲です。逆に言うと対流圏で起きるのが気象現象、成層圏以上で起きるのは天文現象とされる、と言えば若干過言ではありますけど、まあそんなもんだと。
中間圏は、あのー大気圏再突入する宇宙船が大気成分との摩擦で燃え出す層です。流れ星が光るのもここです。
熱圏の底あたりが先ほどの高度100kmのカーマンラインにあたり、ここいらへんにオーロラは発生します。
熱圏の上限は厳密に決められていないんですが、おおむね500~800kmくらいかと。
最上層の外気圏に至ってはどこまで行ってもキリ無いんで便宜上10,000kmあたりにしとこうか、と。大陸間弾道ミサイルの中にはこの外気圏にまで至って再突入するのもあります。
とまあそんなかんじです。

下二層、対流圏と成層圏の模式図置いときます
大気の厚み、これ概算するのに地球大気の総量を地表面積で割ったら出ませんかね。上に行けばいくほど薄くなってるんで概算にもなにも出ませんけどね、仮定の話として。
水分を含まない乾燥しきった空気が地表上の密度でかつ0℃の時、って条件が多いですけどとりあえず1リットルあたり1.293グラムということになっています。
で下図のように計算しました。


約8,000m、エベレストの最終キャンプは均した大気からははみ出します。
昔この仮定大気を「斉一大気」って呼んでたんですけど、近頃は見かけませんね、なんて呼んでるんでしょう。
で千万分の一の地球に落とし込むと0.8mmです。
大気圏? いやいやいや…大気膜でしょ。
今回冒頭のマリリンさんの写真で0.8mmですよ。
この大気膜の中を太平洋や大西洋横断するような旅客機は片道200リットルのドラム缶千本分くらい(乗客一人当たり2本分以上)の燃料焚いてその千倍以上の排気出して日に何百本も飛んでるんです。2,000ccのクルマ2,500rpmで走らせたら1分に5,000リットル(排気温度)の排ガス出して走ってるんです。1m×1m×1mの立方体5つ分が毎分。それが何億台も。
大丈夫ですか、地球。
案外だいじょうぶなんですけどね、とも言えるし結構一杯一杯とも言えますが、それは別件としてここでは深入りせず逃げますよ。



というわけで、ISSは5層にわけた下から4番目の熱圏の、そのまた下の方を周回しています。
そのISSから撮った満月昇る地球の絵でも。


地平線がほとんど平らに近いです。緑がかった層が水分含んだ対流圏かなー、青白くなってやがて漆黒の背景に溶け込むあたりが成層圏かなー。

このあたり、地表から400kmちょっとのところを時速27,600km(秒速7.667km)で、地球一周92分40秒くらいで回ってる、それがISSです。
要するに例えばISSが東京の真上を通過する時、それは水平に言ったら大阪くらいの距離です。光の速さで交信すると片道0.00133秒で届きます。
ちょっとピンとこない時間ですけど。
行進曲のテンポが♩=120とすると16分音符の半分の半分の半分の半分の半分の半分の1024分音符に付点ついたくらいの時間です。ますます判らないなこりゃ。 

このあたり大気成分あります。と言っても並みの高校の化学実験室でできるレベルの真空の2、3桁低い密度の真空ですけど。
地球の重力、もちろん及んでいます。及んでいるから飛び出してどっか行っちゃわない。じゃあなんでテレビで見るISS内部の様子は無重力なんだ、という話については際限なく長くできるんでまたいずれ。


身近な人工衛星として、「静止衛星」ってのがあります。
「気象衛星ひまわり」とかBS・CS、一般的に使われる物ではないですが「きずな」、「こだま」なんてのもあります。
赤道上空を地球の自転速度と合わせるように一日に一周してるので、まるで一定の位置に止まってるように見え、アンテナをそっちに向けておけばそこから動かない便利な衛星軌道です。
これの距離が地表から35,786km、地球中心から計れば半径42,164km直径84,328kmの円を描いて周回している衛星です。
84,328kmに円周率を掛けて24時間で割ると時速約11,000kmです。
ISSより遠いところを半分以下のスピードで飛んでいます。

さて、この直径84,328kmをまた千万分の一の世界に落とし込んでみましょう。
前に使った野球場の月公転軌道の画がいいですね。


青い線が静止軌道、直径8.43mです。
バッターボックス周りのダートサークルが直径約7.9m、マウンド上の投球板から本塁がその倍ちょっとの約18.44m、塁間が約27.4mですから3.25倍、こんなもんでいいでしょう。
写真クリックして大きくしてもらえばホームベース上に置いた千万分の一地球が見えると思いますが、ISSの軌道はこの表面から4cmですから書き込みようがありません。
地表から静止軌道まで光速で約0.12秒です。
♩=120の行進曲で言ったら16分音符くらいの時間です。あ、これ少し実感できますね。

静止衛星は通信・放送・地表観測にとても便利なので、世界中の国や企業が使っています。現在250~300個ほど回ってるようです。
これまでに世界中で打ち上げられた衛星は7,000個超、現在もその約半分が現役で各軌道を周回しています。その一割近くが同軌道面、同高度の静止軌道を廻ってるいることになります。
どのくらい混み合っているかというと、適当に265個廻っていると仮定して、
(84,328 × π) ÷ 265 = 999.714058
平均1,000km間隔です。100倍増えても大丈夫そうです。

Orbital Elevator 1969
時々話題に上がる「軌道エレベーター」も、この静止軌道上に浮かべた衛星を地表からケーブルで繋ぐという構想です。
上の絵は1969年にNASAで検討されていた頃のイラストです。
車輪型の宇宙ステーションが設置されています。これは自転することで生じる遠心力でステーション内部に擬似重力を作り出し居住性を高めるアイデアでした。
往年の児童向け宇宙読物には必ず登場したドーナツです。スタンフォード・トーラスなどと呼ばれて研究を重ねられ、現在のISSにも日本のJAXAが開発担当した「セントリフュージ」と呼ばれる茶筒型の遠心力を利用した居住実験モジュールが取り付けられるはずでしたが諸般の事情でキャンセルされ、宇宙に行くはずだった現物は筑波宇宙センターの駐車場で雨ざらしになっています。このエントリーの初稿にはこの件についての不満や疑問が長々と綴られていたのですが、「ソ連で半世紀前に開始されて10年前に打ち切られたモルニヤ衛星の劣化版である準天頂衛星を今さら上げさせられるJAXAへの愚痴」などと共に大幅に廃棄されました。




身近な人工衛星といえば今時GPSは外せません。
「グローバル・ポジショニング・システム」というと各国の各種含めた一般名詞ですが、略して「GPS」と書くと米空軍が打ち上げ運用している特定の衛星測位システムを指すことが一般的です。
日本で一般に"GPS"と呼ばれ、カーナビやスマホで利用されているのは、この米国のGPSです。
地表からの平均高度20,200km(地球中心からの半径は26,562km)、12時間周期で一日に2周する準同期軌道面が60°ずつずらして6面、各面に4機ずつで計24機(+補機が数機)で運用されています。
こんなイメージです。
衛星機体の大きさはウソです
千万分の一の縮尺に落とし込むと、さっきの静止軌道が直径8.43m、GPSの軌道直径が5.31m、適当な大きさの画がなかなか思いつきません。
大相撲の土俵直径が4.55mでやや小さい。
UFCのオクタゴンが25フィート(7.62m、辺から対辺の間隔)、大会場だと30フィートなのでそこに適当に軌道描いてみました。上のNASAが出してた画で十分な気もしますが。
外の黄色が静止軌道、内のオレンジがGPS軌道
もう寝ぼけながら本題そっちのけでいい加減な図版作る作業

代表的な各種人工衛星の軌道の比較図です。


最外周が静止軌道、
"Galileo"はESA(欧州宇宙機関)の衛星測位システム
"COMPASS MEO"は中国の衛星測位システム、通称「北斗-2」
"GLONASS"はロシアの衛星測位システム
"Iridium"は米モトローラ社の衛星携帯電話・データ通信衛星
"Hubble"はNASA/ESA共同運用の宇宙望遠鏡です。
十文字の目盛の
上は地球一周にかかる時間、下は時速、
右は地表からの高度、左は地球中心からの周回半径で、左右座標の単位"Mm"は百万メートル=千キロメートルです。
わかりやすいですね、これで十分でした。



さて最後に衛星軌道を飛び出して、地球と火星、およびその間あたりの小惑星の距離を千万分の一の縮尺で見てみましょう。
いいですね、この中心に野球グラウンドくらいの太陽があって、直径1.27mの地球が赤い円を回ってるんですよ。


「イトカワ」というのは「はやぶさ」が7年かけて往還達成した訪問先です。

「世界初! 月以外の天体の固体表面からのサンプルリターン」
「おかえりはやぶさ、50億キロの旅」 (60億キロとも)

と、大変な話題になり日本の宇宙開発の技術力を全世界に示したあれです。

「月以外の」とは、月はアポロ計画で半世紀近く前に「月の石」を持って帰って来ましたし、
「固体表面からの」というのは同じくNASAの"Stardust"が彗星の尾に飛び込んでサンプル採取し、2006年に帰還回収成功してるからです。

「50億キロ」とは?
上図の通り、地球の公転半径は約1.5億kmであり、イトカワのそれは近日点でその0.95倍、遠日点でで1.7倍、2億5千万kmほどです。

上図の赤い円上から青い円上に行って帰ってどうしたら50億kmとか60億kmとかいう数字が出るのでしょう。
実際"はやぶさ"は最も離れた時でも地球から3億kmほどでした。

50億kmというのは"はやぶさ"が7年かけて太陽の周囲を周りながら"イトカワ"に到達し、地球まで帰還した約5周の「総航行距離」です。
JAXAの方でこれについて簡単な説明が出ています。
 「はやぶさ」の総航行距離?
「確かに、「**億kmの旅をした」というと、直感的には分かりやすい(分かった気になる)わけですが、ちょっと掘り下げて考えてみると上記のようにあまり意味がないことになります。」
と最後は身も蓋もない投げ出しぶりですが、距離感や意味がわかるとそれはそれでその凄さがわかるんじゃないかと思います。


おしまいに有名な「はやぶさ 最後の写真」を置いておきます。
これはキレイな天体写真を撮るためのカメラで撮ったのではありません。そんなもんとっくに機能してませんでした。
測距・姿勢制御用の光学センサーが検知して地球の司令室に送信したデータを解析処理した画像です。
この直後に"はやぶさ"は故郷の大気に突入してサンプル容器を地球に放り込みながら粉々に燃え尽きました。
"はやぶさ"が見た最後のふるさと地球の姿です。
送りかけの走査データが最後途切れてたり、今でもこの写真をみるとうるうるしてしまいます。

2010/06/13




やれやれ終わった終わった。

1 地球を測る地球で測る
2 地球の丸さ
3 地球・太陽・月の大きさ





土曜日, 4月 11, 2015

おにぎりを試食する○○首相

農業法人「六星」の従業員らに説明を受けながら、
おにぎりを試食する安倍晋三首相(2015/04/11石川県白山市)


以下古い順
大玉村の仮設住宅では地元産の新米で握ったおにぎり2個をほおばり、
「まいうー(うまい)」。(2011/10/18 福島県大玉村 )

福島県産米のおにぎりをほおばる野田首相右は佐藤知事
(2012/10/07福島県本宮市)
福島県のオリジナル品種「天のつぶ」のおにぎりを食べる野田総理
(同上)

福島県広野町産のお米で作ったおにぎりを頬張る安倍晋三首相(右)と山田基星広野町長
(2013/10/25首相官邸)

風評被害対策で視察に訪れた水田で、振る舞われたおにぎりをほお張る安倍首相
(2014/09/17福島県広野町)


安心安全な食を求める消費者の不安は、原発事故以降
倍加する一方ですが、生産者にとっては不安どころじゃないですもんね。
はっきり言って県連議員の点数稼ぎみたいな儀式に過ぎませんが、生産者にとっては
死活問題ですからね。
ネット上では食べなかったらもちろん、食べたら食べたでアレも食えコレも食えと
バカ騒ぎしてるだけですけど。
いろんなところ行っていろんなもの食べさせられて、カメラに向かってポーズさせられても
いやな顔一つせず食べなきゃいけないんだから総理も大変ですね。
野田前首相もずいぶん食べさせられてましたのでついでに上げときます。
ニーズは無いんでしょうけど。

オマケ (2014/12/02福島県相馬市平釜漁港)




おにぎり以外の写真、他の人の写真も追加しましたよ







木曜日, 3月 12, 2015

千駄ヶ谷榎稲荷の二宮金次郎像とか本駒込の吉祥寺とか

お稲荷さんのキツネだってダレたい時もあるさ

駄ヶ谷の榎稲荷から権現様側室の悲願やらオマーン王太子の悲恋やらを織り込みつつ池上本門寺かどっかに至る壮大な話について、なんか要点だけ書きかけて放置されたエントリーがあったんですけど、後で埋めようと思ってた根幹をなす詳細瑣末な部分は忘れました。
忘れたものは仕方ないので改めて別件を書きます。



円寺の一角、お万榎を祀ったお稲荷さんの入り口に、
何故かおなじみ二宮金治郎像が建っています。
よっぽど大事なんでしょう、一度破損したものを再び建立したようです。
榎稲荷の現・二宮金次郎像
見るとすぐ隣に元の像の足元だけ遺されていますね。
足の大きさや歩幅から見て、現存する像の三倍以上の威容があったようです。
ところで現在の像の大きさはどれくらいでしょう。


SEVEN STARSは85mm

あら、ずいぶん小さかったですね。150mmくらいでしょうか。
そこまでして置いとく意味があるんですかね。
なんかあるから置いてんでしょうけどね。


宮金治郎っていうと子供向けの講談読物みたいなんでカッコつけて「ニノミヤソントク」って呼ぶ人いますけど、あれほんとは「タカノリ」って読むんですよ。

金治郎の生地は小田原藩の栢山村、明治の廃藩置県で足柄県になったとこですが、足柄山の金太郎の弟かなんかでしょうかね。

大人になってからの事跡はよくわかりませんが、少年時代に脱穀済んだ稲藁で草鞋を編んで売ったおカネで父親に酒を買い与えたたいそうな孝行息子として修身の読本に長く載っていたのはよく知られています。
よく見かけるこの像は、なんか背負って本読んでる姿です。
なんでしょう、ブックオフとかでよく見かける気がします。

金治郎の歿地は栃木県の今市あたりなんですが、
なぜか文京区は本駒込の吉祥寺に葬られています。

ついでですけど現在の駒込は豊島区、本駒込は文京区です。
目白も豊島区ですが「目白御殿」のある目白台は文京区です。

もひとつついでに、中央線の武蔵野市にある吉祥寺、時々あれは明暦の大火で焼け出された吉祥寺の移転先だって言ってる人いますが、吉祥寺は武蔵野市に移転してません。
大火で焼け出されて移転した先が現在地の本駒込です。
武蔵野市の吉祥寺には門前衆が集団移転しただけです。


て、なぜ栃木の真岡くんだりに赴任してて今市市(日光市に併合されてるらしいですね)に歿したニノさんが本駒込の吉祥寺に葬られているか、Wikipediaにも載ってない奇譚を一つ。

報知新聞 昭和十四年(1939)九月廿四日付
リハビリがてら文字起こししてみました。
いや、もともと文字なんだけどさ。
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尊徳翁に安住の地
駒込見の遺骨
八十四年振りに埋葬
國民精神総動員で産業開發、勤倹貯蓄の叫ばれてゐる折、その化身ともいふべき報徳精神の権化二宮尊徳翁の遺骨がお膝元帝都の城北"八百屋お七〟で名高い駒込吉祥寺に保存されたまヽ尊徳翁の歿後八十四年の今日に至るまで埋葬されてゐなかったことが初めて公にされた、幼い時代から日本國民の良き教材として偉大な役割を果し、尊敬の的となってゐる尊徳翁の遺骨が埋葬されず安住の地を得てゐないことは偉人に対してこの上ない非禮でもあり、遺憾なことであると、今度地元中村本郷區長等が中心となつてこの遺骨を埋葬、同寺を報徳精神の聖地とし帝都の一名所にしようといふ運動が進められ着々具體化してゐる
二宮尊徳翁は嘉永六年徳川幕府より御普請役を仰付けられ日光廟祭田の荒廢整理に取りかヽり、同年日光御神領三十箇年計畫を立て、荒野九千四百八十町歩を開發、途中安政三年十月廿日日光今市の官舎報徳役所において七十歳の高齢で大往生を遂げたので、翁の片腕となって當地に活動してゐた嗣子尊行氏が、今市の如來寺に假内葬し相模國足柄上郡櫻井村東柏山の先祖代々の菩提寺善榮寺には翁の齒と遺髪を納めたものであつたが遺骨そのものは誰の手にも渡さないでおいた、ところが曾孫の徳氏の代になつてから四谷區左門町に居を移し、同氏は大正十二年東洋拓殖會社から南洋方面視察の旅に上ることになつたので、同年四月十一日翁の遺骨は翁の令けいお歌夫人の遺骨と共に本葬するまで一時吉祥寺に預けて出發したが、途中同氏は船中で病死したので、尊徳翁の遺骨は今日に至るまで同寺に安置されたまヽ埋葬されずにゐたものであつた、ところが尊徳翁の精神は今日に生き全國地方行政、町村自治、學校教育にまで廣められ、あるひは報徳二宮神社、報徳社、報徳會等によって國民精神の振興がなされてゐる時、肝腎な遺骨が埋葬されないのは遺憾であると傅え聞いた中村本郷區長は尊徳翁の遺族、吉祥寺の住職岩本勝俊氏等の助力を得てこの埋葬計畫を進めることになつたものである、同寺には翁の子孫の菩提があるので大體その側に墓地を求めて尊徳翁の墓を建立、丁度來月二十日が翁の命日に當るのでそれまでに出來れば作りたいものと關係者一同着々計畫を進めてゐるが、中村區長は若し實現すれば當日は區内の小學校児童を参列させて追悼會を営まうといふことになっている  
(吉祥寺)に預けた 
(子)孫の語る遺骨の經過
 右に関し尊徳翁の子孫で現當主二宮尊道氏(三〇)を中野區氷川町二に訪えば尊道氏は 
祖先尊徳翁の遺骨を吉祥寺に預けた經過は母がよく知つてゐますから聞いて下さい、吉祥寺を菩提寺と定めて檀家になったのは父徳の代です
と語るそばから故徳氏の未亡人そのさん(五三)は次のやうに語った
尊徳翁の本葬は明治御維新となったので延々になり、翁の長男尊行さんが福島原の町新祥寺に預けておいた遺骨を夫徳が南洋に行くについて大正十二年四月十一日私の生家の菩提寺であり宗教が同じ関係上吉祥寺に預けて置いたものですが、旅行中死亡したのでそのまヽとなつてゐたのです、今度住職岩本さんのお骨折り等で墓地が定まることになつたので、吉祥寺に墓所が出來ることになり、こんな嬉しいことは御座いません
中村區長談
 區内吉祥寺に二宮翁の遺骨が安置されてゐることは今度初めて知りました、小學校で時局柄勤儉貯蓄の教育をしても眞に精神的教育が必要であるから、出來れば十月二十日の尊徳翁の命日には生徒に禮拝させ慰霊祭を行ひ、その徳を永遠に傅えたいと思ひます 
二宮神社では否定
 小田原發=尊徳翁の遺骨が吉祥寺に埋葬されるとのことに神奈川縣小田原町所在縣社報徳二宮神社草山神職はこれを否定して次のやうに語る 
 そんなことはない、遺骨は翁の生地たる足柄上郡柏山、栃木縣今市等幾つか由縁の地に分けられたもので、遺骨が今以て埋葬されてゐないといふことはないと思う、何かの間違ひではないか
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とのことです。
この時点では正閏ためらいあるような、奥歯に物はさまったような締めコメがついてます。
顔写真まで晒した「現當主二宮尊道氏」の談話、まるで無用だったですね、とか。
「遺骨」とか「精神」が唐突に大字になるのも趣き深く、以って殷鑑と為し度い所存。
こんな六つかしい字を書き並べながら「令閨」の閨の字は仮名なのはなんなんでしょう。
とにかく旧字の変換にはずいぶん苦しんだ労を見て汲むべき書き起こしです。

そんなわけで誰の遺骨か決め手に欠けるも出たとこ勝負、見切り発車で結果オーライ的に本駒込諏訪山吉祥寺には二宮尊徳の墓所があり、お馴染みの像も御用意されてますよ、っと。

撮ったの5月頃でしたかね ツツジの盛り

右足を前に踏み出し左手を本の下に差し込む
ニノキン像は左四つが天下のお約束



祥寺は曹洞宗のお寺。
なんと千駄ヶ谷榎稲荷の別当ってか管理してる瑞円寺も同じ曹洞宗だったのです。
ここで話は千駄ヶ谷に無事戻りました。
わざわざ戻る必要は一見まるでなさそうですが、ここから大事、今回の話の肝。
榎稲荷のすぐ隣は将棋連盟御用達の「ほそ島や」であります。
蕎麦だけではなくラーメンやカレーも揃えるなんでも食堂の様相もあり、
東京将棋会館における対局での出前元としては「みろく庵」と並び立つ巨頭ですが、
日祝が休みなので近年のように順位戦A級最終一斉対局が日曜に当ると俄然輝きを失います。

将棋会館までスーパーカブで15秒
出前迅速ほそ島や 03-3404-0921

こうゆうトリミングすると、それなりに雰囲気のある、中々やりそうな蕎麦屋みたいでしょ。
前回上げた写真があまりにもなんだかアレだったもんで。
いかにもマンションの一階にテナントで居ついたテキトーな店みたいで。
それで上げ直すために無理矢理ニノキンの話題など扱ってみた次第。






金曜日, 2月 13, 2015

日本人一人当りの原油輸入量を畳敷きの深さで表してみる

算出期間は1960年~2011年までの52年間、
原油輸入量は資源エネルギー庁の資源・エネルギー統計年報・月報
人口は統計局の人口推計を使った。

集計した素のデータは以下の通り。
テーブル張ったらまた壊れたんで、画像で失礼。

表1

まずこれを元に日本の「年間原油輸入量」の推移をグラフにしてみる。
縦軸の単位は千キロリットルである。
グラフ1
日本の原油輸入量は戦後30年近く増え続け、1966年に1億キロリットルを超え、
実に第一次オイルショックの1973年こそ2億8862万キロリットルと今に至るまでの過去最大量を記録した。
第一次オイルショックでは原油価格の高騰にも関わらず、その後の数年も輸入量が高止まりしていることが読み取れる。
輸入量が目に見えて減るのは、イラン革命を受けた79年の第二次オイルショック以降である。
この時期国際的原油価格はむしろ逓減傾向であったにも関わらず、日本にとって主要供給国であるイランの採掘量・輸出量の激減が日本経済に深手を負わせた。
日本社会が本気で省エネ・脱石油依存に目覚めたのはこの機であった。

プラザ合意に始まる円高不況を乗り越え、輸入量が底を打ったのは86年、
この年の12月からは景気動向指数が実に51ヶ月にわたって拡大し続けたいわゆる「バブル景気」にあたる。

その後94年に再ピークを迎え、以降現在まで緩やかな漸減傾向にあるといえるが、
現在なお2億キロリットル以上を輸入している。



次に当該年間の日本の人口推移は以下の通りである。
ただしこれは「日本国籍者」の概数であり、外国人を含む実際の国内居住者はこの1~1.8%ほど多いのであるが、細かいことは気にしない。
だいたい千人単位なんだし。
縦軸の9000万人以下を省略しているにも関わらずそれを示す波線が入ってないのはグラフウィザードでの入れ方が解らなかったからであり、どうせ画像で貼るのだから適当にコントラスト落とした条虫の絵でもペーストしとくという方法もあるのだが不恰好だし第一めんどくさい。
悪いとは思っている。
グラフ2
日本の人口は戦後順調に増加を続けた。
1966年の人口増加が一瞬鈍化するのは当年が丙午であったからである。
それを乗り越え67年前半には一億人を突破すると、しばらくは緩やかに増加を続けた。
03年に1億2620万人を超えてからは頭打ちの様相を示し、07年の1億2635万人をピークに現在は減少期を迎えている。



年間輸入量を人口で除すことで、一人当りの年間原油輸入量が算出されるわけだが、
それはもう「表1」の時点で出してしまっていた。

そこで「一人当りの年間原油輸入量」を「タタミ一畳分の底面を持つ桶」汲んだら
どのくらいの深さになるか、を算出してみた。
「タタミ一畳」の面積については、

「京間と江戸間が…」
「近年は団地サイズや…」

と小煩い能書き垂れたがる者もいるが、そんなもん換算用のタタミ一畳なんて半坪に決まっている。
ここでは「1.65289256㎡」を採用する。


結果、出力されたものが下のグラフである。

グラフ3

73年には日本人の成人平均身長に迫る160.9669cmを叩き出し、これが現在に至る最深値である。
64年には膝の高さ程の46.6609cmであったのだから、10年間で実に3.45倍も深くなったわけである。

その後85年から1mを切る状態が4年続いたが89年再度1mを超え上昇を続け、94年の133.4204cmを再ピークとして現在まで緩やかな減少傾向が続いている。




ちなみに1972年生まれの日本人が2011年に40歳になるまで1畳分の底面積を持つ桶に毎年一人当たり原油輸入量を溜め続けた場合、その積算深度はは4837.235cmとなり、これは奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)の台座を含めた高さの約3倍に相当する。
東大寺盧舎那仏は坐像であるが、仮に立ち上がったとしても頭は出ない深さである。
片足立ちに背伸びして万歳しても指先すら出ないであろう。
もっとも底面1畳分の桶には大仏の片足とて入らないのでそもそも無駄な算段ではあるが、グリコのポーズで原油まみれになってる大仏は想像するだに不憫である。




土曜日, 1月 10, 2015

「地球の自転速度は徐々に遅くなっている」という誤解

今年、世界標準時における6月30日23時59分59秒のあとに 23時59分60秒を挿入する、
いわゆる「うるう秒」の実施が決定しました。
日本時間では7月1日に“8時59分60秒”が挿入されることになります。

「なんだ、またかよ」
「うるう秒って挿入ばかりで削除操作されたことないよな」
「地球の自転速度がだんだん落ちてってる証拠」
「だんだん一日が長くなってくのかー」
「そのうち自転止まるかもね」

それたぶん誤解です。

さっき小学生新聞の記者さんもこうつぶやいてました。
https://twitter.com/tomo_asagaku/status/553791244569022465
百年間で一日あたり二ミリ秒(千分の二秒)のペースで遅くなります。


わかりやすく簡略化して表現したんでしょうが、
なんか "2ms/d/100y" みたいなのもムズムズきます。
誤解を招きやすい表現です。
「この百年で… …遅くなりました。」と書くべきでしょう。
ここんとこを国立天文台ではこう説明しています。
19世紀の約100年間の地球の自転による1日の長さの平均が24時間に等しくなるように定められましたが、1990年頃には、地球は24時間より約2ミリ秒(1ミリ秒は1秒の1000分の1)長くかかって1回転しています。1回転にかかる時間が100年間で2ミリ秒長くなっていることになりますので、もしもこの割合がこれからもずっと続くと考えると、5万年で1秒、1億8千万年で1時間長くなることになります。このことはつまり、1億8千万年後には、1日の長さが25時間になってしまうということを意味しています。(国立天文台 よくある質問 「1日の長さは変化しているの?」)  
このままでは一日の長さはどんどん長くなっていくんじゃないの?
どんどんマイナス加速度ついて今の一日86400秒が百年後には87000秒くらいになって、
そのうち自転止まんじゃないの? しまいに逆回転し始めたりして、お日様西から昇るの?

西から昇りません。止まりません。たぶん。


この節は読み飛ばしてかまいません。
1967年に「1秒とは基底状態の二つのセシウム133原子の超微細準位の間の遷移に対応する 放射の周期の9,192,631,770倍の継続時間」という定義が決まりました。
よく見かけますね、さっぱり意味わかんなくっても大丈夫です。
でその精密な時間を元に1820年からの観測結果など遡って分析した結果、1967年までの147年間に自転一回転にかかる時間は0.002秒ほど長くなっていた、ということが判ってきました。
この精密な1秒の定義をコヨミにも繰り込もうというのは最初からの目論見でもあったので、
1970年に国際原子時(TAI: Temps Atomique International)を導入する時にも
「将来的にTAIと暦表時(ET: Ephemeris Time)にズレが出たらETに合わせるようにTAIの方で1秒出し入れすればいんじゃね?」ってことで成り行き任せの見切り発車でスタートしました。
運用・観測の結果さっそく1972年には最初のうるう秒が実施されます。
この年の観測で天文学的一日(ET)は、TAIでいうところの 86400.003秒あったのです。



このままどんどん地球の自転は遅くなっていくんじゃないのか、という議論があったのは確かです、
40年以上前の当時。
やれ大気の摩擦が、やれ潮汐が、やれ相対論的効果の過小評価が、等々。
いや科学的議論というか世間的話題だったんですけど。
時間やコヨミ決めた科学者さんたちは、そもそもETとTAIには差異があるだろうさってのは織り込み済みだったわけで。
通俗的科学風読み物の世界ではしょっちゅう扱われ、その世界では通説のような振る舞いを見せていました。

「なに、その72年の第一回うるう秒から今日まで25回、すべて挿入だったじゃないか」
「そうだそうだ、一度たりとも秒の削除は無かったぞ」
「地球の自転速度が年々落ちてる何よりの証左だ」


ここに一日で2秒ススむ時計があったとします。
毎月一度は1分戻してやります。
そうしないと実際の時間のズレはだんだん溜まり、5年後には1時間もススんでることになります。
でもとっても正確な誤差を持つ時計なので10年経っても20年経っても一日に2秒ススみました。
時計の針の回転速度が年々加速してったわけでもないので、相変わらず月に1分戻されます。
この時計、もしだんだんススみが落ちてきたらどうなるでしょう?
30年後、一日に1秒のススみになっていたら、二カ月に1分戻してやればいいことになります。
でも戻すだけでススめる必要はまだ無いでしょう。

実際の1972年に最初のうるう秒を挿入してからの実施回数を10年ごとに見てみます。
1972-81年まで、11回挿入
1982-91年まで、 6回挿入
1992-01年まで、 6回挿入
2002-11年まで、 2回挿入
2012年に1回、今年は3年ぶりの挿入実施です。
だんだん回数は減っているのです。
ざっくり言うと70年代に比べて自転速度は早まっているのです!


先に引用した国立天文台のQ&Aもあの後こう続きます。
しかし、この割合でずっと地球の自転が遅くなり続けるのかどうかはわかりません。現に、2003年現在、地球の自転を観測すると、地球は24時間より約1ミリ秒長くかかって1回転しています。1990年のころと比べると、地球の自転速度は、むしろやや速くなっているのです。


緑の線が ET-TAI, 天文学的1日マイナスTAIの86400秒
上の図は実際の一日の長さとTAI86400秒との差(グレー)、その年平均(緑)、その差の累積(赤)、うるう秒を挿入したタイミング(赤ツブ)です。

非常にフラクタルといいますか、この上がったり下がったりしてる緑の線も今後長期的な波がどうなるのかは判りかねますが、とりあえずこの半世紀くらいの間では増減しながらTAIに近づきつつあります。
72年頃をピークに15年ほど減り(自転は早まり)、6年ほど増え(遅くなり)、10年ほど減り、3年ほど増え、なんだか横ばいになり…
だんだん借りを返してるようです。


さて、このうるう秒ですが、時間や暦を扱うそれぞれの立場で是非が異なります。

 天文学者: 天体の動きを正確に記述するには0.5秒以上の誤差は許せぬ
 軍事・宇宙開発: 飛ばしちゃった宇宙探査機とかGPSの調整とか面倒くせえよ
 物理学者: 静止座標系における時間の長さは絶対不変じゃ

とかなんとか、それぞれの立ち位置、力関係で国ごとにも賛否はわかれます。
米国やその科学的同盟国である日本あたりは
「どーせそのうちTAIに近いあたりに収束すんだろからほっといてもよくね?」
といったところでしょうか。
なんにせよとりあえず今年の実施は決定しました。


ついでにいうと4年に一度うるう日を入れ続けてるからって、
公転周期が落ちてるわけじゃないんです。
最初っからそうゆうもんなんです。
一年の日数なんて公転周期を自転周期で割っただけなんですから半端出て当たり前なんです。


とにかくそうゆうことです。
地球の自転速度は心配しなくちゃならないほど落ちてませんし、
一日の長さも伸びてませんから、寝坊の言い訳には使えません。
当日1時間目の授業が1秒長くなるだけです。


日曜日, 12月 21, 2014

伝河原崎藤九郎譚



文化文政期に人気を誇った歌舞伎役者のご存知河原崎藤九郎、
「○○屋の御曹司」とかの箔も無く、一介の野良部屋子の出でありながら、
大変な労苦や研鑽を積んで見事大看板に成り果せた。

その大成功を見た実兄の藤四郎、羨んで妬んで
「ナニ弟の藤九郎に出来るもの、俺ならもっとヤッて見せるわ」
とばかりに梨園に潜り込むも、坊ちゃん育ち、
苦労知らずで付け焼刃の芋大根、
弟の七光りで役は貰えるものの大向こうには大顰蹙。

賢弟愚兄の見本とばかりの藤四郎・藤九郎兄弟の逸話が語り継がれるうちに
楽屋言葉で引っくり返ったのが「素人・玄人」の語源です、
ってウソ思いついたんだけど、どっかの辞典で採用してくんないかなぁ。

金曜日, 10月 03, 2014

歩きに秋田に行った話 6/6

スタルヒンの墓参り (8月13日分)

秋田シリーズ堂々の完結篇、長かったな~、
今日もまだまだ長いけど。
1エントリに写真70枚くらいあるらしいですよ。ちょっとしたブラクラ。パケ殺し。


今日は十文字から雄物川町まで歩きます。
11日の道中は、ろくに歩道も無いとこにクルマの通行が多くてとにかく辟易しましたが、
今日はたぶんルート的にクルマ少ないんじゃないかと期待してます。
歩道あるとこも少ないだろうけど。

出立は9時半でした
このあと郵便局行って要らないもの送ったりしてたから、実際の出発はもう少しあと。
いちおう今日も「丸竹食堂」の前通ってみましたけど、店開ける気ゼロ。
十文字3日泊まって結局十文字中華そば食べれずじまい。

なんかいきなりいい感じの建ってますね
富澤公民會館

なんだろう、これって思って20秒くらいみつめてました
「ととのいましたー ふるさとの恵み」

なんか奥の方にまたすっごい球場みたいの見えますよ
Field of dreams ですか

「死亡獣蓄保冷施設」
そんなのあるんですねぇ
歩くこと約1時間、浅舞公園ってとこに着きました。
立派な土俵

立派な土俵の向こうに立派な球場を遠望
すごい相撲場持ってますね、人の気配まるで無いですけど。
遠くに見える球場もちょっと行ってみようかなとも思いましたが、よしました。
近くに見えて遠いんですよ、あーゆうもんは。
平鹿野球場、両翼100m、中堅122m、収容客数約10,000人ですって。
すごいなー、この辺歩いてる人もいないけど。
ま、国体用に作ったってんですから大いに結構です、僻む気ありません。

相撲場の方は十文字にもあったらしいです。
でも横手市のサイトにはこっちの平鹿相撲場が県内随一って書いてあるからそうなんでしょう。

この公園で巡業できるよね。
近くに屋外ステージもあったから「お楽しみ歌くらべ」もできるよ。
キャンプサイトに宿舎作れるし、山稽古もし放題。

この公園
昭和48年から昭和55年 第一期 事業費1億3900万円 「あやめ園」「和風庭園」整備
昭和56年から昭和59年 第二期 事業費1億3900万円 池と滝、園路、休憩施設を整備
平成2年から平成4年 第三期 過疎活性化対策事業費3億1500万円 「あやめ園」滝を整備
ですって。
そろそろ僻みましょうか、さいわい誰もいないし。


なんかおもしろ看板立ってますよ。
直進↑ 忠義な猫の碑

☞ 忠義な猫の碑
お寺の鐘楼みたいな東屋の中で小学生がゲームやってたんで聞きました。

「そこの木の陰のです」って。

これか!
碑文 ってか立て札文
平鹿郡浅舞村(現横手市平鹿町浅舞)の伊勢多右衛門(1833~1914年)は慈善家として知られた。凶作などの時、困窮した民衆を救うため感恩講を組織し、倉庫に米を備蓄した。また人々に憩いの場を提供するため私財を投じて浅舞公園の工事にかかった。だが野ねずみが大量に発生し、倉庫の米を食いあさり、公園の樹木や側溝、堤などまで破損させた。多右衛門は深く憂いた。すると多右衛門が飼っているメス猫が、主人の願いをくんでねずみを退治した。1907年(明治40年)2月15日、猫は13歳で亡くなるまで、日夜ねずみ退治に明け暮れた。こうして民衆の命を守る感恩講の米は守られ、浅舞公園も完成した。多右衛門は、世にまれな、この忠義な猫の功績を後世に末永く伝えたくて、ここに碑を建立したのだった。
                平成23年 5月20日 寄稿 : 小学校教諭 梁瀬 均
ほーそーですか。
市では動画も製作してるみたいですね、あるんだか無いんだか再生始まらないけど。

猫がネズミ捕ってたってだけの話じゃんよ。
アレだ、大館生まれの犬が東京行って忠犬ってもてはやされて像の前に人集まってるって、
口惜しいからこっちは忠猫で人集めてやれ、って。
集まっちゃいませんが。

こりゃ集まらんわ
なかなか立派な神社です。
お参りしときました。八幡様だそうです。

浅舞八幡神社


浅舞市街入りましたがカラー節約

ありました!
新発売 忠義な猫の招福猫サブレー

立派な切妻物件あったんで撮ったんですけど
一軒おいた隣、「元祖 長まんじゅう」って看板が

よくよく見ると、その三軒先にも「長まんじゅう」
浅舞ってか平鹿の名物だそうですよ、長まんじゅう。


浅舞には酒蔵2軒あるって聞いたんで、
ちょっと行ってみようかな、試飲してあれだったら買って帰ろうかなとか、
地図見て行きやすそうな「浅舞酒造」っての行ってみたら、こんな感じ。
浅舞酒造
ダメだこりゃって思ったら、こっち側は裏だったんですって、後でわかった。失敬。

このへんで11時半くらい、そろそろなんか食べとこうかな、店屋も開いたろうし、
この先ほとんど町らしい町無さそうだし、また食いっぱぐれるといけないし、
って探したんですけどどこもやってない水曜日の11時半。

「ふじた」 やってません
分かれ道に来ました。
新平川バス待合所
羽後交通のバス停もあります。
この辺のお地蔵さんって、みんな律儀に6体セットですね。

左:蛭野、右:大雄・高口 ってなってるので、ぼくは左に進みます。


この辺から左手の田んぼから、鳥が飛び立っちゃ行く手に降りるんですよ、たぶんアオサギ。
で歩いてくとまた飛び立つ。
逃げるんなら戻ればいいのに。それとも道案内ですか、導かれてるんですか、ぼくは。

でそっち方面の先の山のそのまた先、雲の下にでっかい山が見える。
たぶん出羽富士こと鳥海山。
ちゃんと写せた写真ないんでアレですけど、なんかいーなぁと。
山の向こうにもまだ山があるんだ、いつか行ってみてやる、とか、
昔の人は思ったんでしょう。ぼくは思いませんけど。

奥さん、それたぶんサギです

なんかキュートな養豚場の看板


でね、突然このへんから道ばたに石碑が乱立してるです。
「耕心養国 秋田県知事 佐々木喜久治」


逆光でなんだかわかんないですけど
たぶん「五穀豊穣」かと

「天時雨澤 秋田県知事 佐々木喜久治」

どのくらい乱立してるかってとですね、
下の写真、左の木のとこが「五穀豊穣」、右の電柱の間が「天時雨澤」
その前の「耕心養国」から5分も無いようなとこに向かい合ってます。
横手市平鹿町浅舞字大樋とかのあたりです。

 左が「五穀豊穣」、右のが「天時雨澤」 

歩いて10分もしないうちに3連発。
誰も通ってないようなとこに。

なんか気になってググると、この先々代かなんかの知事 佐々木喜久治って人、
そこいらじゅうに石碑残してるみたいです。
盆地の農地だけじゃなく山の方のダムとかにも。
よかったですね、死んじゃっても方々に名前残せて。


遠目で「ビバ!花畑」って書いてあんのかと思ったら
「ヒルノ花畑」でした

幾つ目でしたっけ、床屋の廃墟。
床屋廃墟@蛭野
物流革命で地方の零細、壊滅してますもんね。
きっとこの辺の人はAmazonでアタマ刈るようになりましたかね。

分かれ道の家の玄関先に いきなり墓場

地蔵堂
ほんときっちり六地蔵そろえるよなー

おや、また地蔵堂ですか

たぶん大中嶋から上中野の間だったんじゃないかと思います。
松の木陰にまた地蔵堂、と思ったらなんか様子が違う。

わら人形立ってるし

夫婦っぽいですね
なんだかよくわかんないけど、写真撮っといたんです。
で、後述の「雄物川郷土資料館」のお姉さんにこれ見せて聞いたら、

「あーそれカシマサマですねー」 って。

詳細はたぶん後述。


また道ばたに墓
なんで道ばたに墓立てるの? 石碑建てるの?
ここなんか神社の鳥居前じゃん。


とかとか思いながらひと気の無い道を歩いてると、沿道から視線の気配が。

なんかいる

飛び出しぼうやだー
ってかオマエずるくね?
やっぱ道ばた、なんか突然建ってるし。

「菊池金八郎」だそうです
「菊池金八郎」、なんか岩手の亀ヶ森村々長に同名の人いますね。
その人でしょうか。
よく見ると、脳天から口端にかけてヒビ入ってます。
大槻ケンジの元祖でしょうか。


ふと空を見上げたら、雲の形になんとなくデジャヴゥ。
いかん、ピントが無限遠までいかない
カメラ叩いたら治ったけど、今度は陸が写ってなかった
なんだこれは。
見上げるかんじの角度とかインパクトとか、そうだアレだ。


ほぼ雄物川町にはいりました。
入って最初の建物は沼館保育園でした。
ぼくは会塚という集落方向からテクテク歩いてきたので、こっちから入りましたが、
普通雄物川町には別の方面から入ります。

後から知ったのですが、この沼館保育園を昭和19年に創設したのは
当時の崇念寺住職の高橋義雄という人で、設立時は現在地ではなく崇念寺境内にありました。
この人は明治の終わりに洋画家を目指してヨーロッパを目指し出立、
行きは日本人の嫁を連れて行ったはずが帰りはなぜかロシア人の嫁を連れて帰ってきた人です。
そのロシア人嫁との間に産まれた息子は現在の崇念寺の住職をしています。
娘は後に神田ニコライ堂で大柄なロシア人と出会い結婚しました。
たぶん後述。

今、目の前に見えてる気がする田んぼは遺跡なの?

木戸五郎兵衛村入り口
田んぼを抜けて辿り着いたのは、なぜか木戸五郎兵衛村の裏でした。
明治-大正期の民家・農家を4,5軒ほど移築保存してある公園なんですが、
こーゆうのは外面だけ見ててもしょうがないんだ。中に入れないと意味無い。
だってどうかするとその辺の集落に同時期の建物が現役で残ってるんだし。
中まで入れるようにするとなると入場料収入だけでは維持管理できないんだろうけど、
屋外保存だけだってカネかかるんだし。
そもそも町外れの県道バイパス沿いに唐突に建てたって誰も来ないし。
それ以前に雄物川町自体、観光客なんてほぼ来ないんじゃない。


いよいよ町に入りました。
雄物川町沼館というところです。
後三年の役の合戦もあった古戦場です。
ちなみに近くにはJR東「後三年」の駅もあります。ほんの12kmほど東に。
横手市ですらない、仙北郡美郷町です。華王錦の産地です。



ご利益いっぱいうれしいな

またなんかわかんない史跡が出てきました。


市川團之丞の墓所、だそうです。
「鎌輪ぬ」の七代目團十郎の門下で「岡本新内」(岡本派新内とは別らしい)を創始した人、
みたいです。


さてこの辺で13時半頃、そろそろなんか食べなきゃいけません。
今日も結局朝からなんにも食べてません。
町に入ってすぐの食堂、やってません。
お盆だから仕方無いです。
おでん屋あったけどやってません。その後5時頃開いて焼鳥焼いてましたが。
お寿司屋、もうこれでいいや、盆地の奥の山辺の街の寿司、案外いいかも、
やってませんでした。
そのすし屋の脇から出てきたオバちゃんに聞いたら
「あら、じゃあ薬局の隣のタキザワ食堂行ってごらんなさい。ここら開いてるとこ他には無いから。」
ってんで行ったら薬局2軒もあったけど食堂見当たりません。
開いてる方の薬局に入って聞いたら、
「あ、そこ。隣。やってるかなぁ、さっきまではやってたけど。」
薬局と薬局の間の店、 言われてみれば食堂のように見えましたけど、もちろん終わってました。
8月13日(水)14時前の話。




もういい。いったん食事は諦める。
本日の目的地といえば目的地、スタルヒンの墓に向かいます、って滝沢食堂から2分で到着。

崇念寺の入り口
「スタルヒンの墓」ってバナー立ってます

お寺入るなり迷うことなく発見

「栄光の名投手 ヴィクトル・スタルヒンの墓」
1916-1957
「栄光の名投手」って言いますが、ぼくの中ではどっちかってと「悲劇の名投手」、
あるいは「歴史と二国間の関係に翻弄されたアレ」ってな位置付けです。


なんか綺麗ごとばかり書いてありますが、たいへんアレな生涯だったと思います。

ヴィクトル・スタルヒンは1916年、エカテリンブルクの北100km余のニージニ・タギル生まれです。
翌年いきなりロシア革命勃発。
親族に帝室付武官がいたが故に一家はボリシェヴィキに迫害され、東へ東へと落ち延びます。
大陸からはみ出しサハリンへ、ついには北海道旭川まで至り、
ここで一家がつかの間平安の地を得たのが1925年のこと。
なにぶんほんの20年ほど前に日本はロシアを負かしましたから敗戦国の一家です。
それでも当時の日本、北海道は度量があった。
非公式亡命で無国籍だったヴィクトル少年をなにも言わずに小学校・中学校と受け入れました。
でも敗戦国から亡命してきた子、学校ではイジられキャラだったそうです。
それでもいつもニコニコ受け流し、みんなの後ろを嬉しそうについていく子だったと。

ざっくり琴欧洲イメージしてもらえればいいかと。ぼくはそうしてます。

そしてその間両親はロシアパンを焼いて売ったりして生計を営みました。
ヴィクトル少年も授業が終わればすぐに売れ残りのパンを持って近所を売り歩きました。
街中を回り終えると、同級生らがいる河川敷に回ります。
同級生たちは野球にこうじています。
ヴィクトルはルールもわからず、それでもニコニコ見ていました。
同級生たちはお腹が空くとヴィクトルくんちのパンを買って齧ります。
そのうち、「お前、ガタイいいんだから、ちょっと打ってみろ、投げてみろ」となります。
たぶんね、たぶんだけど、クリチコ兄弟とか、ヒョードルとか、大鵬父とか、ヴィクトル古賀とか、
そんなコサックの血が流れてたんじゃないかと、たぶん。
いきなり途轍もない身体能力を炸裂しちゃったわけです。
それからルール習って基礎練習して、旧制中学入る頃にはいっぱしの野球選手だったと。

後年ですが留萌で野球覚えて旭川に移った北の富士をイメージ、しなくていいです。

ところで両親の商売はそのうち軌道に乗って、一軒のミルクホールを構えます。
たしか常磐公園近くのあのロータリーの近く、ずいぶん以前に跡地の銘版を見た気がします。
支店みたいなカフェーも増やしてたんじゃなかったかな。
そこで大事件が起こった、と。 ほんとに起きたのかでっち上げだったのか、
今となっては誰にもわかりませんが。
ヴィクトルの父、コンスタンチン・スタルヒンが従業員を殺した、と。
ロクな裁判も無いまま、無国籍人の父は獄門につきます。
残ったスタルヒン母子は、どうかするとボリシェビキ待ち受けるソヴィエト連邦に強制送還です。
当時日米野球で連戦連敗の苦杯を舐めていた中央球界の、
警察官僚上りの正力松太郎らによる嵌め手であったとも言います。
職業野球からの誘いを断り続け、旧制旭川中学でトモダチと一緒に甲子園に行き、
早稲田への進学を夢見ていたヴィクトル少年の人生の舵はここで大きく切り替わりました。

「そつぎょうまで プロには ぜったい いかない☆ みんなで コーシエンに いこ☆」

その約束を守れず、誰にも告げず、スタルヒン母子は人目を忍んで夜汽車の席に着きました。
着の身着のまま夜逃げ同然、ロクに荷物もなく、
ただ膝の上に握り締めた友達から貰った木彫りの熊に、ボタボタとヴィクトルの涙が落ちました。

そして日米野球日本チームに帯同、
そのまま大日本東京野球倶楽部(2年後の東京巨人軍)に入団、
その後の活躍は輝かしい碑銘の通りです。

戦時中に敵性国人名から「須田博」への強制改名、軽井沢への隔離収容など、
強引な引き抜きの割りに巨人軍からの庇護は冷ややかだったようです。
巨人軍への忠誠なんか無かったんでしょう。
ただその巨人軍入団直後の監督、藤本定義には良くしてもらい恩義を感じていたようです。
戦後再開したプロ野球でもパシフィック、太陽ロビンス、金星スターズと藤本に着いてきます。
その頃も登板のたび、ベンチには必ず例の「木彫りの熊」を携えてきていたと。

そして1957年のオフ、おりしも東京都内で行われた旧制旭川中学OB会の当日に、
その会場に向かうまさにその時に「謎の死」を遂げます。

旭川時代のヴィクトル少年
没後、荼毘に付したお骨は生前ほとんど縁の無い雄物川町の
ヨメの実家であるここ崇念寺に弔われた、と。

はぁ~良かった、雄物川町の話に戻ってこれた。

このヨメの出自と馴れ初め、その父である先代崇念寺住職高橋義雄氏の波乱の人生なんかについては、やってるとキリがないんで割愛。


さて、墓前に来てみたものの、供える線香もございません、店やってねんだから。
で、ひと気の無い本堂脇のインタホン鳴らして人呼び出して聞いたらジジイ出てきて
「あー、お線香なら本堂にあるの持ってってくださいね」
って言われちゃって、仕方ないから本堂上がって一束もらって、
うーん、こーゆうの相場判んないんだよなー。
ウチの墓参り行く時、100円とか書いてあるとこ二束で千円とか五千円とか置くもんなー、
とか悩みながら置いたのが200円。

ヴィクトルとその夫人ターニャ久仁恵スタルヒンの墓碑銘
建立した娘のナターシャさんは現在美容コンサルかなんかしてます

お線香をあげ、帰ろうとしたところ、さっきのジジイに呼び止められました。
ジジイの正体は、ヴィクトルのヨメの弟である現御住職の高橋大我様でありました。
いろいろ資料を頂き、お話を伺いました。
去年ロシアから撮影チームがやってきて、スタルヒンの伝記映画が製作されているそうです。
そろそろ完成して今年中には日本でも公開されるかも、と。
スタルヒンの愛娘ナターシャさんがその辺コーディネートしてるそうです。
そんな話の中、
「ところで例の"木彫りの熊"は、今どこかにあるんでしょうか?」
と訊いたところ、
「さぁ~、聞いたことありませんねぇ」 だって。
撤収。
本堂の左の突き当たりね
街に戻りますが、することありません。
バスの時間まで2時間以上あるみたいだし。(後で気付いたけど快速バスがもっと前にあった)
ってか何でもいいです、何か食べたいです。


また床屋の廃墟だよ

「女ズン」ってなに?
こっちじゃそうゆう何かがあんの?

佐々運酒店、開いてた、助かった
外見新らし目だけど中は古い店
なんかないのかって街の地図見たら、デイリーヤマザキあんじゃん!ストリートビューにも載ってる
おにぎりでもサンドイッチでもいいや、なんかあるでしょ、助かったー
けど廃墟でした。


食いっぱぐれたままトボトボと雄物川町郷土資料館とやら入って時間つぶし。
市の紹介文では
雄物川郷土資料館は、県指定の玉類をはじめ、歴史・考古・美術・民俗・自然の各分野にわたって展示を行っている資料館であり、横手市内の資料館施設の中心施設に位置づけられています。
ってなってますけど、またとりとめも節操も無い市民の物置みたいですね。
「各分野にわたって」って物は言い様ですね。

ところが驚いた、奥入って展示眺めるうち、こりゃ大変だぞ、と。

火焔土器
レプリカとかじゃなく実物

火焔土器、部分ならゴロゴロある

遮光器土偶も部分なら現物がある

遮光器土偶、
部分だけど、むしろ両足揃いは珍品かも

石鏃、土産物屋みたいにある
この写真、開架展示してるうちのほんの一部

石匙、石箆もいくらでもある
さらっと岩偶も

このへんってか東北一帯たしかかに縄文遺跡ゴロゴロあるんだ。
で平安期末の戦乱の舞台になった以降はコレといって何事も無く田畑だったんで、
掘ればいくらでも歴史が重層になって出てくる。
特にこのエリアは後三年の役の古戦場だったんで、いろんなもんが出てくる。
とはいえ出過ぎ、並べ過ぎ。


入館料100円だったし、もーこの時点で元は取ってた。
でもまだ終わらない。
横庄線の遺物とかもろもろあったんだけど飛ばす。

浅舞八幡様のご加護かスタルヒン供養の御利益か、
ここで若瀬川登場。

若瀬川栄蔵(1903-1990)の化粧まわし他
この資料館から5kmほど南の雄物川町西野出身の若瀬川栄藏の遺品数々。
Wikipediaに書いてないようだから補足しとくけど、この人も本名は佐藤さん。
先年の桐山部屋の閉鎖で絶えた「○瀬川」の始祖。
ちょっと嘘。その前にいた清瀬川敬之助の手引きで角力入りしたんだから。
清瀬川が旧伊勢ヶ濱部屋を興して以降、
照國、清國、幡瀬川、と横手湯沢のいわゆる秋田県南部伊勢ヶ濱勢の台頭があった。
その一時代を担ったのが、この初代若瀬川。
「清瀬川」とか「若瀬川」って川は無いんだよな、たぶん。
「皆瀬川」とか「成瀬川」って川はあるよ、この辺。
みんなまとまって「雄物川」になる元の川。
あーあと「瀬川」って苗字はやたら目立つ。

とにかく忘れてた。ここで見るまで「秋田の○瀬川」の件。

前の写真のケース、裏に明荷とか稽古廻しとかあんだけど
隙間に首突っ込まないと見えない展示

化粧廻し着用の写真だ
「秋田縣有志」贈なんだな

「二十四代式守伊之助」の銘が添えられた御幣
同じケースに、土俵祭や部屋の稽古場にあるような御幣も入ってた。
謂われも箱書きもなく、ただ「大和谷長右衛門氏寄贈」とだけあったんで、よくわからないけど、
二十四代伊之助は旧伊勢ヶ濱一門の朝日山部屋の人、
こないだまでいた正直(まさなお)の師匠だから、なんかその辺の繋がりかしら。



さて、別室が民俗系というか、農具民具関係のガラクタ集めた部屋があって、
そこで居酒屋の船盛りに使うような舟形の上に無造作に一対の藁人形が置いてあって、
ん?これさっき見たぞ、って思いましたよ。
で、券売兼もぎり兼案内兼監視兼学芸員みたいな、
要するに館内唯一の職員みたいなお姉さんにさっき撮った写真見せて訊きました。

「あーこれカシマサマですね」
「集落の入り口に置くんですよ。災厄や疫病が入り込まないように」

あとからジワジワきました。
「そうか、カシマサマ」なのか、と。

ぼくが道中見かけたカシマサマは30cmかそこらのかわいらしい夫婦でした。
大きいのは大きいらしいです。4~5mもあるとか。往年の「大魔神」みたいに猛々しいお姿で。

でも立ってるだけなんですよね。
強制力をもって異者を阻止したり排除したりするわけじゃない。
入りたければ入ってもいいけど、何も置かず何も取らずに出て行ってくれ、的な。
なんとなくこの数日感じてた秋田人の気概というかなんか。
ぼくはこれを「こころのカシマサマ」と名付け、この後は心に留めてじんわり楽しみました。

ほっといてくれていいから。
押し売り要らないから。
要るものあったら自分たちで獲得してくるから。
ちゃんとやってるから大丈夫。

なんか秋田の人たちのよく掲げる「自主・自立、共働・共助」の精神を涵養している原点というか。
秋田を秋田たらしめ、秋田の魅力を醸すのは、この精神性ではないかと。
これからも秋田の人たちには末永く「こころのカシマサマ」を大切にして頂きたい、
と思いました。いやほんとに。



まだバスの時間までたっぷりあったので空腹がなんとかならんかと町の人に聞いたら、
マックスバリューがあるというじゃないですか。先に教えてくれよ。
行けばきっと弁当・惣菜なんかしらあるだろうと駆け込みました。
入るなり、レジから駐車場へ続々と、寿司やら刺盛りやらオードブルやらカートに山盛りしたお客さんが出てきます、よしっ。
ところが弁当・惣菜売場は臨時編成で、本日はすべて予約販売だそうです。
お盆に集まる親族を迎える支度で街中てんてこまいみたいです。
なんとかヤマザキのカレーパンとトップバリュの麦茶売ってもらえました。

思えば秋田入って最初の食事もラッキーのピザと唐揚げでした。



その頃、17時近くになってましたけど、
それまでクルマばかりで歩いている人なんかほとんど見なかった雄物川の町に、
やたらと歩行者が、それも集団で現れだしました。
みんな手に手に水桶や花束を持っています。
家名の入った提灯持った人もいます。
どうやら一通り集まったので揃ってお墓参りタイムのようです。
ひとりぽつねんとカレーパン齧りながらバスを待つほんの10分ほどの間にも、
何組もの一族が通って行きました。

横手駅行きのバス着たので乗りました。またしても乗客はぼく一人です。

安全鉄則 まんづ止まれ
そういや横手駅に向かうバスの車窓からも1mくらいのカシマサマ見ました。
運転手さんに聞いたら、
「まだまだ大きいのもありますよー」
「え、この道筋にありますか?」
「いやー、この路線には今ので終わり」


その間にも乗客は乗ってきたと思えばすぐに降り、道中のほとんどはぼく一人でした。
そりゃそーだ
こんな朝1本、夕に2本のバスなんて誰が乗るもんか
面白いんで運転中の運転士にみだりに話しかけてみました。
道路運送法第二十八条の1違反です。

「またずいぶんゾロゾロと墓参りが歩いてますねえ、みんなこの時間行くんですか?」
「うーん、集落によっても違うんじゃないかな、ウチは昼に済ませたなあ」
「こんなに人が道歩いてることってあるんですか?」
「うーん、一年で一番運転気を使う日かもしれませんねえ」

横手駅に近づいてからは、同じ道を別系統のバスも通るんでしょう、いくらか乗ってきました。


横手駅到着。
予約してた駅前のホテルにチェックイン。
なんだこのホテルは。半分廃墟。
入り口の軽食ラウンジは営業してない。
フロントは呼ばないと人が出てこない。
エレベーターは1基を残し停止。
部屋のエアコンはオンとオフしかない。
Wi-Fi完備とかって使えるのはフロント前のどっかから拾ってきたような応接セットの場所のみ。
その他もろもろ。


シャワー浴びて外に出ました。
横手駅周辺ぐるっと一回りしたけど、ほとんど店やってません。
バスターミナルと一体化したユニオンという複合商業施設があるわけですが、
その中の秋田銀行と北都銀行のATMがあっておカネ下ろせた。
これは助かった。でも日本円使える店が無い。
ユニオン内も上部階はほとんど空き店舗のようですが、
1階にはアックスとかいうスーパーが入ってました。
なんかあるかと入店。19時前ですが蛍の光が鳴ってました。
こりゃまた秋田最後の晩餐は駅のNEWDAYSですか、と思ったところで、
七兵衛という店が開いてました。
他に店が無いからか、たいそうな混みっぷりでしたが、
こういうときは一人の強み、カウンターになんとか入り込めました。

売りはいろいろあったようですが、
その中からとりあえず「比内地鶏の焼鳥盛り合わせ」と
「当店手作りの えご」というものを頼んでみました。

これがその「えご」
干した海藻を磨り下ろして戻して作ったコンニャクのようなものの刺身。
海藻の風味が利いてて美味しかったです。


後ろの小上りに10人くらいの団体がいたんですが、
二十、三十代の男女ほとんどにオジサンが一人。
地元の話をしてるようで、みんな標準語。
なんかのついでに訊いてみたら、地元高校の部活のOB会だそうです。
道理で、と納得するものの、
「ほんと、皆さんきれいに標準語ですね。方言は出ないんですか?」って聞いたら、
「最初だけですよー、お酒回ってきたらバンバン出ますよーw」
なんて言ってましたが、ぼくが帰る頃まで全員きっちり標準語でした。

この店は横手焼きそばでも大変有名な店だったようです。
カウンター越しに客と店主らしき人の話を聞くともなく聞いてたんですが、

「近頃は横手やきそば名乗る店もずいぶん増えてきたけどねー、決まりごとってもんがねー…」
「うちは古いから。二軒目だから」

とか色々語っておりました。

ならばと思い、シメは本場の名店で横手やきそば食べようかと思いましたが、
隣に運ばれてきた横手やきそば見たら、なんかベチャっとしたかんじで、
おまけに半熟みたいな目玉焼き乗ってんの。ぼくタマゴ嫌いなんだよ。
で、ふとカウンターの上見たら、「十文字中華そば」ってありました。
十文字に3晩泊まって結局食べられなかったあれ。
決まりです、注文しました。

「ウチのはね、横手で唯一ホンモノの十文字中華だから、」

とかよく意味の通らない自慢してましたから、ホンモノなんでしょう。
これも美味しかったです。念願かなってがっついたから写真撮ってないや。
横手でこれなら、十文字でもいくつか食べ比べたかったです。


駅にあったポスター
書体といい色使いといい迷いなく、なんでこんなかっこいいんだ

翌朝早くに横手を発ち、とっとと東京に帰ったんですが (嘘。宇都宮に寄り道した)、
この5日間の結論としてですね、

招かれてるとか実家があるとかじゃなけりゃ、お盆前後秋田には決して近づくな

ということです。
生死に関わる大事なことです。
お盆や正月以外の時期に、きっとまた行きたいな、と思いました。



この写真、なんだっけかなー、思い出せない
「忠義な猫」の 伊勢多右衛門かなー?




木彫りの熊を見るたびに
の名を思い出せ
の名はヴィクトル・スタルヒン