"The pen mightier than the sword"
mightier:might(力、権力、腕力)の比較級
via:Fred's pencils |
赤青鉛筆または朱藍鉛筆、二色鉛筆の話。
ドイツ語では"Zweifarbstift"です。
そう「文房具」という言葉がドイツ語の"Buromaterial"の直訳であるように、
二色鉛筆もまたドイツから入ってきた、
もしくはドイツに代わって製造されるようになった、といった話になる予定。
そもそもは「赤青鉛筆は平和と文化の象徴」のような言質を見かけて、
うんそうだよな、まったく間違ってない、
少なくともちょっと前までの現代においては、
と奥歯に物の挟まったような感想を持ったのがきっかけで、
ざっくり整理しておこうと。
少し前まで赤青の二色鉛筆は編集・出版の世界では欠かせないものでした。
赤は訂正・校正用、いわゆる「赤字入れ」に使われます。
青は旧来の写真製版では拾われない色なので、
版下やまんが原稿の指示書きに使われます。
同様の理由で筆跡の保存を旨とする卒業アルバム用に青罫の原稿用紙が使われ、
青罫方眼紙なんてのもありましたね、過去には。
活版ガリ版プリントゴッコすら消えた現代では趣味道楽以外で使われることはありません。
なので赤青鉛筆は文化の象徴たる出版の、
それも作り手の象徴としての位置を占めていたのです。
もっとも出版物の中でも競馬新聞などでは受け手の象徴のようですが。
しかしもともとこの赤青二色が一体となった鉛筆は、
血腥い戦場、から遥か離れた血腥くない参謀本部の作戦室のニーズで生まれました。
遅くともすでにナポレオンの頃から図上作戦に鉛筆が使われていました。
作戦将校たちがいちいちポケットから鉛筆を出したり入れたりしてるのに
業を煮やしたナポレオンは「そんなもん始終肩から吊っておけ」と命じます。
将官の象徴である飾り緒、あるいはモール、Aiguilletteの始まりです。
なので当初下士官、兵は着けませんでした。
現在では儀仗兵や番兵でも着けます。
そして鉛筆ストラップとしての実用を離れ儀礼装飾となってからは
緒の先の飾り金具は16世紀まで使われていた鉛筆の御先祖である、
先込め式黒鉛ペン(すでにPencilと呼ばれます)を模した形になっています。
via:US Militaria Forum |
ソヴィエト連邦軍や人民解放軍は自軍を赤で描いていたという話もありましたが、
たぶんガセです。
二本の色鉛筆を取ったり置いたりするのが煩雑なので、一本にまとめられないか、
ということでおそらくドイツで生まれます。
19世紀終わり頃にはあったようです。
これは20世紀半ばを描いた21世紀初頭製作の映画
「ヒトラー~最後の12日間~」のトレーラーですが、
ヒトラーが二色鉛筆を叩きつけています(1m04sあたり)。
映画の話ですが考証は取ってる、んじゃないかなあ。
ドイツ製赤青二色鉛筆は世界中を席巻するのですが、
1914年に始まる第一次世界大戦(もちろん当時は誰も「第一次」だとは思ってない)
の開戦、それに伴う海上封鎖、経済制裁でドイツの鉛筆はドイツ国外に払底しました。
ちょうど期を一にして同年眞崎市川鉛筆株式会社から
「月星印朱藍色鉛筆」が売り出されさっそく輸出にも回されます。
二色鉛筆に限らず当時鉛筆といえばドイツ製を最高とみなされてましたが、
それが禁輸となって代替生産国として日本にお鉢が回ってきたのです。
以後数年間、日本の鉛筆輸出量は空前となります。(絶後ではない)
ふとここで、現在の二色鉛筆の趨勢について気になったので、
三菱鉛筆のWebさいとから当該のカタログページを見てみました。
赤青ではなく朱藍とこだわっております。
朱7:藍3なんての、やっぱまだあるんですね。
画材としての色鉛筆は尖った面と磨られた面とを自在に使い分けられるよう丸軸が求められます。
しかし前述の編集作業等には筆記具としての六角グリップが求められます。
朱藍5:5と朱通しは六角がラインナップされてますが、あとは丸軸、
興味深いですねぇ。
先述の眞崎市川鉛筆ですが、明治20(1887)年眞崎鉛筆製造所として創業、
のちに吸収や合併を経て現在の三菱鉛筆㈱となります。
眞崎といわれて真っ先に思い出すのは帝国陸軍大将眞崎甚三郎ですね。
皇道派の首魁として二二六事件を惹き起こし、本人は無罪で予備役蟄居、
のちの東京裁判でも逮捕されるものの不起訴と逃げ切りながら、
事件を機に皇道派は統制派も海軍も政府も世論も抑えこみ、
無謀な対英米開戦のみならず
作戦図の赤の無い地域に青の本隊だけを押し進めて兵站を繋がず、
空白域は援蒋ルートと称して狂ったように赤鉛筆で塗りつぶし、
みすみす200万からの将・兵・民を犬死にさせ、
さらにそれを遥かに上回る他国兵・民の命を奪った元凶さんですね。
三菱鉛筆の源流「眞崎鉛筆」の創業者である眞崎仁六は1848年佐賀の生まれ、
1876年同じく佐賀生まれの眞崎甚三郎の父の名は眞崎要七。
なんか関係あんすかねぇ。
とかなんとかを踏まえて冒頭の格言を「ペンは剣よりもキョーレツゥ」と解すると、
あ~なんだか切ないですねぇ。
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