火曜日, 3月 10, 2020

国鉄、とか鉄道省とか日本鉄道とかのデタラメが東京の地名を蹂躙してた件

今回あえて「高輪ゲートウェイ」については一切触れませんよ。


土地鑑無い薩摩や長州の田舎っぺが江戸以来の地名地称を無恥無神経に踏みにじった一群の話の一端。

まずは豊島区が日本鉄道のデタラメをカサに文京区の町名を強奪した例から

目白

目白と言えば年寄りなら全国区的に連想されるのが田中角栄の「目白御殿」。
あれは室町時代から続く三管領家の細川氏の屋敷の一部を割譲してもらって建てたもの。
角栄もまさか細川の坊ちゃんが第79代内閣総理大臣になるとは思っちゃなかったろに。
細川家の地所は和敬塾として分離独立させたり、物納で文京区立肥後細川庭園や目白台運動公園になったりしたものの、未だ永青文庫としてほんのり残ってる。
角栄目白御殿も相続の際に一部を物納して運動公園のテニスコートとして活用されてる。
ポンジョこと日本女子大学目白キャンパスも、
これらが常識的に言う「目白」
なのに行政的には「文京区目白

google mapから
色が薄くなってる辺りが「豊島区目白」
赤丸は戦災のどさくさで不動像が豊島区高田に持ってかれるまで江戸五色不動の一つ「目白不動」があったとこ、今の住居表示では「文京区関口」。
その間あたりが「文京区目白」。


日本鉄道が1885年、赤羽ー品川間、市街化されていない未開の土地を買って線路繋いで郡部にこさえた途中駅に目ぼしい地名も無く最寄りの名所の名を借りて「目白」と名付けたのは百歩譲って許せなくもない。
東京市15区時代には豊多摩郡だった豊島の野良が、35区に拡大されて吸収されるドサクサに、小石川区の台町とか老松町とか青柳町とか各々町名を固守していた目白一帯を出し抜くように、新規参入豊島区が「だって目白駅があるもん」ってだけで「豊島区目白」を謳った。地名を乗っ取った。
なので昭和4~50年代の住居表示再編の諸町名まとめる際に文京区側はやむを得ず「目白台」と称した。

歴史ある本来現文京区の地名を省線国鉄の威光を借りて豊島郡が盗んだ例は続く。
パターンなので、なるべく詳細は省くよ。

大塚

地理院地図から。

だいたいざっくり黒い線で切った切った上が豊島区、下が文京区。
ここも旧来より市街地たる本来の駒込地区を避けて、用地の安い郡部に線路敷いた日本鉄道が無責任に駅名「大塚」と名付けたばっかりに、市制内に編入されて調子に乗った豊島区が「線路の北は北大塚、南は南大塚」と称した結果、
南大塚の南が「文京区大塚」になってしまった例。
京急の「品川」から南に一駅行ったら「北品川」の例に似て異なるけど面倒だから今回は触れない。

駒込


これもまた豊島郡の名も無い野良に設置した駅に、直近の名のある地名「駒込」をつけて、現豊島区が駒込称したせいで、地図で白っぽくなってる文京区側の本来の駒込が略して「本駒込」とせざるを得なかった例。
詳細略。


「鶯谷」ってのはさ、今で言ったら「夕焼けだんだん」の谷中銀座、あれの一本二本南の蛍坂とか防災広場とかの一帯を言ったんだ。
それが丘まるまる一つ斜めに越えた、谷でもない岬のヘリみたいとこに駅作っといて鶯谷とはなんだろね、とかもあるんだけど。


「品川駅」は港区で、「目黒駅」は品川区、「旧目黒駅前郵便局」は港区なんてのは、まー今回いいや。

北千住

「北千住」なんて地名は今も昔も無いの。
千住が発展したんでその手前、千住大橋の内側が「南千住」称してはいるけど。
これもまた院でも省でも国鉄でもなく日本鉄道がやらかした話なんだけどさ、南千住から北に進んだ次の駅だから「北千住」って名付けたの。
あそここそ「千住」なのに。

かつての町名に「千住北組」ってのはあったけど、それはあくまで千住の各丁の一つ。

だから昭和生まれの千住っ子は地元を「北千住」とは名乗らない。
最寄り駅が北千住なのは認めるけど。
三田の子が「田町です」って言わないのと一緒。
下手すると住所氏名欄に「千寿」って書いちゃうくらい。
近頃続々のマンション系住民は「北千住」と名乗って抵抗無いんだろうけど。



うわ、やべぇ。
これキリ無いや。
「田町」も「新橋」も「秋葉原」も…
地元の実象を知らない鉄道省や国鉄が無責任につけた駅名がその後に及ぼしたもろもろ。

「御茶水」 「高田ノ馬場」
ほら気持ち悪いだろ。

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