お稲荷さんのキツネだってダレたい時もあるさ |
千駄ヶ谷の榎稲荷から権現様側室の悲願やらオマーン王太子の悲恋やらを織り込みつつ池上本門寺かどっかに至る壮大な話について、なんか要点だけ書きかけて放置されたエントリーがあったんですけど、後で埋めようと思ってた根幹をなす詳細瑣末な部分は忘れました。
忘れたものは仕方ないので改めて別件を書きます。
瑞円寺の一角、お万榎を祀ったお稲荷さんの入り口に、
何故かおなじみ二宮金治郎像が建っています。
よっぽど大事なんでしょう、一度破損したものを再び建立したようです。
榎稲荷の現・二宮金次郎像 |
足の大きさや歩幅から見て、現存する像の三倍以上の威容があったようです。
ところで現在の像の大きさはどれくらいでしょう。
SEVEN STARSは85mm |
あら、ずいぶん小さかったですね。150mmくらいでしょうか。
そこまでして置いとく意味があるんですかね。
なんかあるから置いてんでしょうけどね。
二宮金治郎っていうと子供向けの講談読物みたいなんでカッコつけて「ニノミヤソントク」って呼ぶ人いますけど、あれほんとは「タカノリ」って読むんですよ。
金治郎の生地は小田原藩の栢山村、明治の廃藩置県で足柄県になったとこですが、足柄山の金太郎の弟かなんかでしょうかね。
大人になってからの事跡はよくわかりませんが、少年時代に脱穀済んだ稲藁で草鞋を編んで売ったおカネで父親に酒を買い与えたたいそうな孝行息子として修身の読本に長く載っていたのはよく知られています。
よく見かけるこの像は、なんか背負って本読んでる姿です。
なんでしょう、ブックオフとかでよく見かける気がします。
金治郎の歿地は栃木県の今市あたりなんですが、
なぜか文京区は本駒込の吉祥寺に葬られています。
ついでですけど現在の駒込は豊島区、本駒込は文京区です。
目白も豊島区ですが「目白御殿」のある目白台は文京区です。
もひとつついでに、中央線の武蔵野市にある吉祥寺、時々あれは明暦の大火で焼け出された吉祥寺の移転先だって言ってる人いますが、吉祥寺は武蔵野市に移転してません。
大火で焼け出されて移転した先が現在地の本駒込です。
武蔵野市の吉祥寺には門前衆が集団移転しただけです。
さて、なぜ栃木の真岡くんだりに赴任してて今市市(日光市に併合されてるらしいですね)に歿したニノさんが本駒込の吉祥寺に葬られているか、Wikipediaにも載ってない奇譚を一つ。
報知新聞 昭和十四年(1939)九月廿四日付 |
いや、もともと文字なんだけどさ。
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尊徳翁に安住の地
駒込吉祥寺で發見の遺骨
八十四年振りに埋葬
國民精神総動員で産業開發、勤倹貯蓄の叫ばれてゐる折、その化身ともいふべき報徳精神の権化二宮尊徳翁の遺骨がお膝元帝都の城北"八百屋お七〟で名高い駒込吉祥寺に保存されたまヽ尊徳翁の歿後八十四年の今日に至るまで埋葬されてゐなかったことが初めて公にされた、幼い時代から日本國民の良き教材として偉大な役割を果し、尊敬の的となってゐる尊徳翁の遺骨が埋葬されず安住の地を得てゐないことは偉人に対してこの上ない非禮でもあり、遺憾なことであると、今度地元中村本郷區長等が中心となつてこの遺骨を埋葬、同寺を報徳精神の聖地とし帝都の一名所にしようといふ運動が進められ着々具體化してゐる
二宮尊徳翁は嘉永六年徳川幕府より御普請役を仰付けられ日光廟祭田の荒廢整理に取りかヽり、同年日光御神領三十箇年計畫を立て、荒野九千四百八十町歩を開發、途中安政三年十月廿日日光今市の官舎報徳役所において七十歳の高齢で大往生を遂げたので、翁の片腕となって當地に活動してゐた嗣子尊行氏が、今市の如來寺に假内葬し相模國足柄上郡櫻井村東柏山の先祖代々の菩提寺善榮寺には翁の齒と遺髪を納めたものであつたが遺骨そのものは誰の手にも渡さないでおいた、ところが曾孫の徳氏の代になつてから四谷區左門町に居を移し、同氏は大正十二年東洋拓殖會社から南洋方面視察の旅に上ることになつたので、同年四月十一日翁の遺骨は翁の令けいお歌夫人の遺骨と共に本葬するまで一時吉祥寺に預けて出發したが、途中同氏は船中で病死したので、尊徳翁の遺骨は今日に至るまで同寺に安置されたまヽ埋葬されずにゐたものであつた、ところが尊徳翁の精神は今日に生き全國地方行政、町村自治、學校教育にまで廣められ、あるひは報徳二宮神社、報徳社、報徳會等によって國民精神の振興がなされてゐる時、肝腎な遺骨が埋葬されないのは遺憾であると傅え聞いた中村本郷區長は尊徳翁の遺族、吉祥寺の住職岩本勝俊氏等の助力を得てこの埋葬計畫を進めることになつたものである、同寺には翁の子孫の菩提があるので大體その側に墓地を求めて尊徳翁の墓を建立、丁度來月二十日が翁の命日に當るのでそれまでに出來れば作りたいものと關係者一同着々計畫を進めてゐるが、中村區長は若し實現すれば當日は區内の小學校児童を参列させて追悼會を営まうといふことになっている
(吉祥寺)に預けた
(子)孫の語る遺骨の經過
右に関し尊徳翁の子孫で現當主二宮尊道氏(三〇)を中野區氷川町二に訪えば尊道氏は
祖先尊徳翁の遺骨を吉祥寺に預けた經過は母がよく知つてゐますから聞いて下さい、吉祥寺を菩提寺と定めて檀家になったのは父徳の代です
と語るそばから故徳氏の未亡人そのさん(五三)は次のやうに語った
尊徳翁の本葬は明治御維新となったので延々になり、翁の長男尊行さんが福島原の町新祥寺に預けておいた遺骨を夫徳が南洋に行くについて大正十二年四月十一日私の生家の菩提寺であり宗教が同じ関係上吉祥寺に預けて置いたものですが、旅行中死亡したのでそのまヽとなつてゐたのです、今度住職岩本さんのお骨折り等で墓地が定まることになつたので、吉祥寺に墓所が出來ることになり、こんな嬉しいことは御座いません
中村區長談
區内吉祥寺に二宮翁の遺骨が安置されてゐることは今度初めて知りました、小學校で時局柄勤儉貯蓄の教育をしても眞に精神的教育が必要であるから、出來れば十月二十日の尊徳翁の命日には生徒に禮拝させ慰霊祭を行ひ、その徳を永遠に傅えたいと思ひます
二宮神社では否定
小田原發=尊徳翁の遺骨が吉祥寺に埋葬されるとのことに神奈川縣小田原町所在縣社報徳二宮神社草山神職はこれを否定して次のやうに語る
そんなことはない、遺骨は翁の生地たる足柄上郡柏山、栃木縣今市等幾つか由縁の地に分けられたもので、遺骨が今以て埋葬されてゐないといふことはないと思う、何かの間違ひではないか----------------------------------------
とのことです。
この時点では正閏ためらいあるような、奥歯に物はさまったような締めコメがついてます。
顔写真まで晒した「現當主二宮尊道氏」の談話、まるで無用だったですね、とか。
「遺骨」とか「精神」が唐突に大字になるのも趣き深く、以って殷鑑と為し度い所存。
こんな六つかしい字を書き並べながら「令閨」の閨の字は仮名なのはなんなんでしょう。
とにかく旧字の変換にはずいぶん苦しんだ労を見て汲むべき書き起こしです。
そんなわけで誰の遺骨か決め手に欠けるも出たとこ勝負、見切り発車で結果オーライ的に本駒込諏訪山吉祥寺には二宮尊徳の墓所があり、お馴染みの像も御用意されてますよ、っと。
撮ったの5月頃でしたかね ツツジの盛り |
右足を前に踏み出し左手を本の下に差し込む ニノキン像は左四つが天下のお約束 |
吉祥寺は曹洞宗のお寺。
なんと千駄ヶ谷榎稲荷の別当ってか管理してる瑞円寺も同じ曹洞宗だったのです。
ここで話は千駄ヶ谷に無事戻りました。
わざわざ戻る必要は一見まるでなさそうですが、ここから大事、今回の話の肝。
榎稲荷のすぐ隣は将棋連盟御用達の「ほそ島や」であります。
蕎麦だけではなくラーメンやカレーも揃えるなんでも食堂の様相もあり、
東京将棋会館における対局での出前元としては「みろく庵」と並び立つ巨頭ですが、
日祝が休みなので近年のように順位戦A級最終一斉対局が日曜に当ると俄然輝きを失います。
将棋会館までスーパーカブで15秒 出前迅速ほそ島や 03-3404-0921 |
こうゆうトリミングすると、それなりに雰囲気のある、中々やりそうな蕎麦屋みたいでしょ。
前回上げた写真があまりにもなんだかアレだったもんで。
いかにもマンションの一階にテナントで居ついたテキトーな店みたいで。
それで上げ直すために無理矢理ニノキンの話題など扱ってみた次第。
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