日曜日, 3月 15, 2015

東大農学部に新しくできたハチと上野博士像


冒頭一発かますけど、当分出てこないハチと上野博士


去る3月8日、本郷の東大、ってか住居表示で言うと文京区弥生なんですが旧本郷区な農学部キャンパスに、ご案内の通り「ハチ公と上野英三郎博士像」が完成・お披露目されました。
昨日小石川牛天神あたり梅見がてらブラブラしてるうちに湯島天神も覗きに行きたくなって、
そうとなればと思い出して寄り道してきました。

新旧取り混ぜながら例によってたいへんおせっかいな話。
画像は重いし回り道もくどいよ。




「文京区弥生」と言いましたが、ご存知"弥生式土器"の標識片が出た弥生です。
が、この"弥生式土器"がどっから出てきたのか、
諸説入り乱れて現在わからなくなっちゃってます。
まー大体この辺だ、と。
「発見地」と称しながら自信なさげな案内板
というわけで明治17(1884)年、東大の敷地を拡張したり整備したりするなか、坪井正五郎らが、
なにやら赤焼きの壷を見出しました、と。

折から明治5年(1872)には新橋-横浜間に鉄道が開業。
その工事中に携わった日本人の誰も気にも留められなかったようですが、
明治10年(1877)6月に横浜に上陸した途端のE・モース博士が、
2日後に東京へ向かう道中の車窓、大森の切り通しになにやら貝殻片の混じる地層を見出す。
後日取って返してつぶさに調べると、こりゃ間違いなく古代生活遺跡であるぞ、と。
それまで日本の歴史家、とりわけ国学者なんてものは昔の遺跡なんてまるで関心無い。
記紀および諸々を紐解いて、てんで勝手に解釈するのが商売だった。
専門家がそんなもんだから、政権も世間も同様、
前方後円墳は茶畑にするわ、平城京址には近鉄線の線路敷いちゃうわ。

そんな中、切り通しの土手に埋もれた貝殻に「御雇外人」が目の色変えて面白がってる。
「これか、埋まってるもんほじくり返してしげしげつぶさに眺めて愛でる、これが学問というものか」
と感心した帝大の先生方の中、
とりあえず掘り返して出てきた壷片を大事に取って調べてみたら、
どうも大森から出てきたもんと様式も成分も違う、別の時代、別の文明のもんじゃないの?
って思って、とりあえず取っといた。
これが弥生土器の始まり。

その後もその後、90年経った昭和49年(1974)に、現在の浅野キャンパス下の小汚いある意味文化遺産的な職員住宅(写真なくした)のそばの朽木のウロから、遊び場にしてた根津小学校の生徒が土器片・貝殻なんかを発見して再注目されました、と。

その場所は大体わかってる。
ただ明治期の坪井博士らが掘り出した地点は、もうわかりません、と。

先の写真の案内版が立ってる向かい側にも記念する石碑が建ってるんですけど、
「弥生式土器発掘ゆかりの地」と、すこぶる煮え切らない碑文となっております。



さて「弥生式土器」についてはこの辺にして、話を次に進めるどころか遡ります。
「弥生式」の「弥生」ってなによ? という話。

このあたりに「弥生」という地名がついたのはそう古くないです。
江戸時代の後期と言うかほぼ末期、最後の将軍慶喜の御尊父、水戸家の徳川斉昭が当地に立ち寄った際に詠んだ歌が元になってます。 いや、歌には詠まれてすらいないんですが。
名にしおふ春に向ふが岡なれば世にたぐひなきはなの影かな
と詠まれたのが1828年3月(弥生)の時だった、ってだけです。

それ以前は「向丘(むこうがおか)」の一角に過ぎませんでした。
だいぶ前ですが、文京区にも住居表示の整理変更の波が襲ってきた時、
このあたり住民は一致団結して抵抗した結果、「弥生」の町名は無事守られました。
「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑を建立したのはその 連中 町会員だったはず。


「ハチと上野博士の話はまだですかね」
ぼくもそう思います。

そろそろ農学部キャンパスに入ります。
が、すぐにはハチの話にならなそう。
とりあえず、東大本郷エリアの図面でも出しながら甚だおせっかいな案内が始まります。
図の左が北です。
東京大学 本郷・弥生・浅野キャンパス構内図

図の左下、「農正門」から入りましょう。
駅で言うと丸の内線・大江戸線の「本郷三丁目駅」より南北線の「東大前駅」の方が近いです。
次に近いのは千代田線の「根津駅」

入るとすぐ左側に「朱舜水先生終焉之地之碑」が建ってます。
朱舜水先生」ってのは、明の国使として日本に渡ったとたん、その明が順に滅ぼされてしまい、帰るとこ失って途方に暮れながらも帰国交渉をしようにも肝心の順もあっという間に滅んで清に乗っ取られ、どーにもこーにも路頭に迷ってたとこ水戸の黄門様のお抱えになりおおせた人ですね。
自分の国が滅びたもんだから光圀に憂国思想を植えつけて「水戸学」に走らせた皇国史観のきっかけみたいな人だと理解してます。


先の「弥生」の項で書こうと思って冗長に過ぎるから我慢してたんですけど、
一応時代背景とかその枠組みの確認として、やっぱ書いときます。

江戸時代のこのあたり、現在の春日通りと本郷通りが交わる本郷三丁目の交差点、
「かねやす」のとこですね、そこの角から本郷通りに沿って東側の現東大用地は、1kmくらいにわたって南から順に加賀の前田様、水戸の徳川様、信濃守の小笠原家が並んでました。
後に本郷通りに面した側は、度々の大火で神田日本橋芝方面から焼け出されたお寺が続々と移転して来るんですが、って打ち込みながら、あれ、それってなんか最近聞いた話だぞと思ったら、つい昨日本駒込の吉祥寺のこと書いたばっかだった。あれも本郷通り沿いのもうちょっと先。

現農学部のあたりは水戸家と小笠原家にまたがってるんですが、たぶん水戸家の敷地ですね。
光圀の食客ですし。でここで御客死なされたと。

その「朱舜水先生終焉之地之碑」のすぐ後ろ、てか前の写真の後ろにも人だかりが見えてますが、
そこに「上野博士に飛び寄るハチの像」があります。
お待たせしました。

ただこの場所ですね、ちょっとした林の中なんです。
だからあっちこっち影ったり日が当ってたりで、写真撮るの苦労すると思います。

これ正午ちょい前ですが、素で撮るとこんな感じでまだらになったり背景明るすぎたりしますよ。
南から

先に上げたキャンパス構内図をご覧下さい。
親切に赤丸で示してあるとこがこの像の位置です。
で、上野博士が東、ハチが西の立ち位置となっています。
正午頃なら南側、像の銘板が入ってる正面側から日が当ってちょうどいいかな、
なんて思ってたらこんな感じになります。
さっきの構内図には更に親切なことに方位コンパス付けときました。
何が親切って、正午ごろの日当たり加減をイメージしたドロップシャドウもつけてみた。
むしろ西に日が落ちて本郷通り側の塀の陰に隠れた頃合いの方がましかな、と。

でも日当たりもあるし、銘板あんだからこっちが正面っぽいので、
だいたいみんなこっち側から写真撮ってます。
では反対の北側から撮ってみましょうか。

北から

とこんなかんじでギャラリーがいっぱい写し込めます。
こっちはこっちで上野博士が駆け寄るハチに思わず手放したのカバンの様子なんかもくっきり見えて結構なんですけど、南側から撮ってる大勢さんにしたら、とんだ邪魔者ですよ。
なんか日当たり加減調子良くって人っ気の少ないムシのいい時間帯、無いっすかねぇ。
人っ気まるで無いけど日当たりもまるで無い3時台のハチ公口の近頃


ところで写真撮ってるうちに気になって、近寄ってしげしげ眺めたり撫でさすってみたりしたんですけど一向に判らないことがあって。
ハチの首の下あたりに掛かってるイボイボの帯みたいの、何ですかね。
ハーネスにしては中途半端な位置ですし。
その下の胴の切れ目みたいのも気になります。
なんか着せられてたって拵えなんですかね。

それとついでだ、もう一つつっこんどこう。
秋田犬は待ちわびたご主人と再会したとき、耳は左右にぴーんと寝るんだよ。
子母澤寛が「愛猿記」という名の愛犬本所収の作品中で、それを度々「かんざしを挿したよう」と描写してた、あれ。





※追記:
わかった、ハーネスみたいのこれだ、な。
そーいや かはくみどり館のハチもこんなの着けてた気がしてきた
渋谷のも着けてたっけ?



ところでついでに、しては面倒くさい長話になりますが、結構だいじな話。
本日のキモかも。
なんで上野博士とハチ邂逅の像が弥生キャンパスにあるんでしょうね。

ご存知の通り上野博士は渋谷駅の近く、現在の東急本店の裏あたりに住んでました。
東急が百貨店始めたのは昭和に入ってから。
道玄坂上に本店構えたのは東横店や東急会館より更に下ってオリンピック後。

で、出勤時には渋谷の駅までハチと同道、帰宅時には改札口までハチがお出迎え、
これ定説になってます。
が、
実際当時上野博士は渋谷駅ばっかり通ってたわけじゃないんですよ。
My Map作ってみたんだけど、どうやって貼るんだったっけ、忘れたので画像。

真ん中の青いマーカーあたりが上野博士宅。
右の赤マーカーはご存知渋谷駅ハチ公口。
そして左の赤マーカー、これが当時の「東京帝国大学農学部正門」

ハチが現大館市の二井田村で産まれたのは大正12年(1923)11月10日、
その二た月ほど前の9月1日には関東大震災がありました。
震災当時の本郷の帝大の様子は寺田寅彦の随筆にもたびたび書かれています。
寅彦は「地球物理学者」でしたが、同僚だった今村明恒はズバリ「地震学者」で、その今村に師事した地震の島村先生が、震災当時の今村博士の日記をWEB上に註釈付きで公表されています。
「震源までの距離は初期微動の継続時間に八を掛けると得られる」とか、
別バージョンでは平田銛(平頭銛)の平田森三博士の話もチラっと出てきたり、大変興味深いですよ。

宮崎=ジブリ作品の「風立ちぬ」も冒頭で震災とその日の帝大の様子が描かれていました。
あれにあるように本郷の帝大の建物自体、揺れにはある程度耐えたんですけど、赤門近くの医化学教室で倒れた薬品の瓶から出火、そこを起点に時計回りで三四郎池を一周するように順次火が回りました。

赤が焼失・被災建物、数字は延焼順
なもんで、その後の再興に当って、全学横断的に施設の整理改革が行われました。
それまで農学部は駒場にあったんです。

ちょっと面倒くさい話なんですが、本郷キャンパスは旧水戸徳川家の地籍を元に、隣接する加賀前田家の土地を駒場農学校の土地とトレードする形で第一期が形成されました。駒場の旧前田邸は曲折を経て現在都有の公園として昭和の初めに建った洋館和館を残しています。
でもってそうして削った駒場の地の一部を更に向丘にあった「旧制第一高等学校」と交換して拡張します。
それがおおよそ現在の弥生キャンパスです。
交換して移転した「旧制第一高等学校」用地は現在の筑駒のあるあたりです、たぶん。

さて震災から年が明けて大正13年1月15日、ハチは秋田から上京するひとの例にたがわず、
オコモにくるまれて上野駅に着きました。
ハチが送られてきた時の荷札
でじたる渋谷 忠犬ハチ公のおはなしより
〽上野はー おいらのー 心の駅だー くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった
当時のハチはこんな歌まだ知りませんでした。
そもそも上野はオマエの新しい飼い主だ。

上野博士は農業土木の大家であったので、ハチが自邸にやってきた時点すでに、震災復興で関東全域を飛び回り、その合い間に農事指導で全国を飛び回り、さらにその合い間に農学部再建の折衝で霞が関を飛び回っていました。
労苦が祟ったか、翌大正14年(1925)5月21日、駒場の農学部で開かれた教授会会議の終了後に倒れ、そのまま不帰の人となります。
「最後の講義中に」ってのはリチャード・ギアの映画の設定かなんかだと思います。
とにかく上野博士がハチと過ごしたのは超多忙の1年4ヶ月だったのです。
たったの。
濃密な。


当時の府内の交通事情については面倒くさいのでだいぶ割愛、
震災前はまだ現山手線の東京-上野間が未通で一周完結してませんでしたから、
本郷の帝大に行く時は省線渋谷駅から池袋周りで駒込か上野下車というところでしょうか。
霞が関に行く時は渋谷駅東口からの都電9系統(だいたい現銀座線)、もしくは10系統(だいたい現半蔵門線)といったとこです。
渋谷駅東口と言えば
「今時の人は渋谷の東口の都電や都バスが溜まってたとこ、"ヒカリエ前"っていうんだってねぇ」
「昔はなんていったんですか?」
「アタシら古い東京もんはねぇ、"シカリエ前"って言ったもんだねぇ」
 といった余計な小ネタをはさみつつ、
ハチとは渋谷駅でお別れ、晩には迎えに来てね、と。

それ以外にですね、結構まだまだ駒場の農学部にも出勤してたんですよ、上野博士。
あのー山手通り沿いの「山手らーめん」ある並びのね、
あそこ今、交差点名が「東大裏」ってなってますけど、本来あそこ正門だったのね。
帝大農学部時代は。
キャンパス再編後、戦後井の頭線の駒場東大前駅ができたり、学制改革で教養学部を集約したりしてるうちに正門じゃなくなったけど。
で、先に上げた地図通り、渋谷駅と変わらない、徒歩十分とかからない距離なです、上野宅から。
てか近いから渋谷の大向に家持った。
上野博士とハチは、結構駒場キャンパスに同道してたらしいんですよ、当時の証言とかで。
駒場の仕事の時は、キャンパス内や正門付近で待機してたと。
上野博士が急逝した当日も駒場の農学部に見送りに行ってたと。
出迎えにも行ってたと。

だからね、
上野博士とハチが出会うのは、渋谷の駅頭か駒場キャンパスの旧正門前でなくちゃならない。
本来は。生きてればね。
両者死んじゃったからね。
魂の再会ってことで、弥生でいいじゃん。

それにさ、ハチの剥製、弥生からも遠からぬ上野の科学博物館にあるよ。
みどり館で南極から生還したカラフト犬のジロと並んでるよ。
だからもう弥生でいいじゃん。


となると青山墓地で上野博士と並んで埋葬したとされてるハチは何なんだ?
皮剥いたの焼いたの?








さて、今日書こうと思った用件は済みました。
後はお茶でもいかがですか。

弥生キャンパスの一番奥の向ヶ岡ファカルティハウスってとこにカフェってか、レストランバーってか、そんなのがありますよ。
さっきの構内図に青丸で印つけときました。
いわゆる学食とはちょっと違います。
本来、遠方から来た研究者を迎える宿泊施設、とそれに付随する飲食施設、ということで、
それなりにちょっと洒落てながらもこなれたお値段。
研究者ってか、平日日中はご近所ママ友の溜まり場の様相もあるくらい、学外者でもまったく問題なく入れます。
アフリカの民芸品みたいの主調にした天井も高く明るいカフェ。
ランチ千円前後からあります。やたらオーガニックだし。
お昼の繁忙期はともかく、お茶だけでも全然大丈夫。
こんな写真しかねえや
で、この店、ってか学内施設か、
裏が東大名物雑草自然に生えるがままの庭になってて、
その向こうに裏出入り口があります。
普段門扉には鍵が掛かってるんですけど、店員に言えば開けてくれます。
外から入る時は、インタフォンもありますから呼び出せば開けてくれます。
さすがにお盆は休業してたの図
この裏口から出た先正面は異人坂、左に出て石段降りると根津教会の道です。
そのまま谷根千散策開始できます。

異人坂
一旦本郷通りに出て、あるいは専用歩道橋を渡って本郷キャンパス行ってみるのもいいですね。
工学部1号館前には呪いにかかったように早咲きする有名な桜があります。
構内図の黄色くしたあたりです。
2015年3月13日 例年通り狂い咲き

一番南、先の構内図の右端の龍岡門や春日門から出て春日通りを左(東)へ、
1分かそこらの最初の角を左に曲がったとこにお寺の山門が見えます。
麟祥院です。
春日、春日と言いました、その由来の春日の局の墓所です。
また東洋大学創設者の井上円了先生がその前身たる「哲学館」を開いたとこです。
今の時期、椿が終わりかけ、橙がたわわになってました。
写真撮ってたガイジンさん撮ってた

春日局御廟所
「三葉葵」の紋所がお目に留まれば
右には母方実家は稲葉家の「折敷に三文字」
高貴な仏の無縫塔、いわゆる卵型
これ墓石の角が朽ちなくて結果的に経済的だよね

周辺案内始めるとキリ無いんだ。

赤門から出て本郷通りの近江屋洋菓子店、外見ではそんなに気付かないけど、中に入ると神田連雀町の本店と寸分違わぬ間取りで、しばらく居るとどっちにいんだか判んなくなって気持ち悪いよ。けど本店同様スープドリンク飲み放題500円(+税)付けてケーキやサンドイッチ食べるのはいいね、とか、
春日門の内側に去年あたり出来た、予約の取れない"湯島くろぎ"の菓子専科"厨菓子くろぎ"もお高いけど流石だね、何が流石って学内の学生や教官職員よりご近所の愛犬家とかで賑わってるもんね、とか。


構内図の右端、ピンクで印つけたとこに、懐徳館ってのありますよ。
オリジナルは明治40年前後に建てられた当世最高級、天皇陛下迎えたくらいの建物だったんだけど、ご他聞に漏れず戦災で焼け落ち、現在のは再建されたレプリカ。
それでもさすが建物もお庭も結構なものです。
運がいいと年に数日、公開お茶会なんかで入れますが、
残念ながら普段は学生でも絶対立ち入り禁止です。
門柱で常勤番が目を光らせてます。








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