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水曜日, 8月 28, 2019

芝浦「やまや」覚え書き

先日、芝浦は高浜橋のたもとにあったホルモン部落の昔話をしてたら、
どうにも噛み合わない。
「ネットで見たら、」とか言ってるんで、早速インターネッツ巡視してみました。
したらあーなるほど、と。
晩年の、21世紀の体験なんだな、と。
なので、そのほんの10年ほど前の90年前後、
芝浦(正確には海岸)に”Gold"があった頃の「やまや」についての、
ごく一面的な局部的な話を書き留めときます。
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まず、最初に「やまや」(と後に呼ばれるようになった店)の発見の経緯ですね。

当時、「やまや(仮名)」の正面にはもう一軒の家が建ってたんです。
小屋ともバラックとも言えますが人が住んでる家が一軒、
「やまや」の間口の1.5倍くらいの幅の家が確かにあって、
なので「やまや」は旧海岸通りからは直接見えませんでした。
後にぶっ壊されて妙に膨らんだ歩道になってたあのスペースです。
隣の「はるみ」(当時違った名前だった気がするけどなー)は通りから丸見えで、
看板煌々と照らして盛業中でした。
なので、そっちには2,3度行ってました。
映画「タンポポ」の焼肉シーン、あそこの2階席じゃないかなーとか。

ある夏の日のその晩も何軒目かで「はるみ(ホントにそんな名前だったかなー)」に行くつもりで、

その前にちょっと路地の陰で立ちションでもと思って表の家の裏に回ったら、
角曲がったとこに共同便所あるんだけどね、電気無いから暗くて怖いしね、
そこに一軒の店がありました。
おやこんなとこにも、それが「やまや(仮称)」でした。
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その頃の「やまや」は8時閉店を目標に、

隙あれば7時でも6時でも平気でやめちゃう柔軟な店でした。
だからそれまで気付かなかったんだと思います。

その日はたまたま暖簾が上がって明りが点いてるもんで、

じゃあ今日はこっちにしてみるか、と入った、んじゃなかったかなー。
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婆:なにするー 早く決めてヨー


のちの姪っ子参入時代とはまるで違いまして、

当時の「焼キ肉ク」の品書き、「赤」「白」「レバ」だけでした。
「赤」は今でいうハラミ、それとなんかのスキ身、
「白」は消化器腸管系、
「レバ」は肝臓とそれに似たなにかでした。
牛なのか豚か、はたまた何なのか、考えたくもありませんでした。
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:じゃあ赤ふたつに白一つ、あ「ヤサイ」ってどんななの?

婆:玉ネキとかー 中ネキとかー うー…
:あーまーいいや、じゃそれもひとつ、いや二つ

赤二つ白一つ、それにタレ

まとめてぶっこんだボウルくっちゃくちゃ捏ねながらやってきて
生焼けのジンギスカン鍋にジジーっとぶちまけて、
テーブルにこぼれた肉をつまんで鍋に載せながら

婆:油とタレ、このヘリ落ちるてしょー、

  このヘリに豆腐並べるとトーフ沁みて美味しいヨー
:あっじゃあ豆腐も頂戴!
婆:無いヨー 

婆:はいヤサイだよー

:玉ネギと長ネギだけじゃんかよ、「とか」はどこ行ったぁ?
婆:玉ネキはヤサイだヨー
:…うん、知ってるよー
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ビールやなんかは拾ってきた自販機みたいのからセルフサービスするシステム。
無いものねだりすると片道4,5分かかるローソンにパシらされるスタイル。

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:ゴハン頂戴!
婆:ゴハン? ゴハン食べるの? ナンデー
  何杯食べるー
:いや…一人一杯、〆て5杯、くらい?
婆:じゃー… 借りてくるよー
:いーよっ、後でよそで食うから

婆:オバチャン、来週里帰りで休みネー

:里はどこだい?
婆:大田ヨー、一週間くらい休みネー
:一週間か、暑いしねー、市場休みだろー、ニク大丈夫?
婆:たいじょうぷだよー うち全部冷凍たから

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携帯電話がまだレンタル制だった時代ですね。
社用貸与だけじゃなく個人持ちも普及し始めた頃。
ポケベルでいうと数字表示できるようになってた頃。

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:ここ何時までやってんの?
婆:だいたい8時。お客さんいないともっと早く閉める
:それじゃ早いなー、なかなか来れないよ
婆:電話くれたら開けとくヨー
:じゃ電話教えて、〇〇〇-〇〇〇〇、や ま や、と
婆:やまやってナニヨ?
:この店の名前だろ、ノレンに書いてあんじゃん
婆:あーアレ、拾ってきたのヨー
  店の名前なんか無いノ、「おばちゃんの店」でいいのヨー
:それじゃこっちが判んねーよっ
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リバーサルやモノクロネガは結構あったんだけど、フィルムスキャンまですんの面倒。
奇跡的に紙焼きが墓箱にあったので撮ってホイ。
この日はトーフがあったようだけど、いい味出してるのはオヤジ。
この箸使ってる豚足みたいの、オバチャンだなー。





一年半ぶりのエントリがこれかよ

木曜日, 2月 09, 2017

門前町の甘味処のラーメンについてそろそろ



あの「歩く呪い」に取り憑かれて以来、
名跡の門前街の甘味屋のラーメンが気になり、
かれこれ50軒以上(リピート含め)100軒未満かしらってくらい調査入れてます。

昨日もたまらずムラムラ、
門前甘味屋ラーメンで五指に入る中野は新井薬師参道の冨士見野行ってきました。

日本で最初のPpapabubbleもできてビックリした参道


別にどってことないんですよ。
ただ甘味処が余芸でラーメンも拵えます、ってだけで。
「あーあーあれね」って思いますよね。

でも侮れないんです。
ただ単体のラーメンじゃ無いんですから。
「甘味処のラーメン」ってのは、甘味へのプレリュードなんですから。
要は前菜、あるいは導入。

なので塩味ちょいと強めに当てたりして。
なおかつ「他のお寺さんの門前とは一味違う」ってな工夫入れて。

当日はたまたま御縁日の8日にぶち当たって、
大福も稲荷鮨もあれもこれも売り切れの昼下がりでした。



はい来ました、ラーメン。
チャーシュー、メンマ、海苔、水菜などがお出迎え。中太麺。
これスープ自家で取ってんだろ、みたいなフレッシュ感。
勉強した感あるもっちりチャーシュー。

これ単体だけでも結構なあれなんですけどね、
いただいてる後半は「さぁどうする? アレか?コッチか?」と思いは千々に乱れる。
「食後のアレ」ね。
オーソドックスな甘味屋で邪道に近いけど、バニラアイスいいっすよね。
だってテーブルに粉コショー置いてあるんですぜ。
バニラアイスに挽き立て黒胡椒は家でもできるけどさ、
この辛いだけの粉コショー、いまどき家に無いもんな。

とかね。

アズキ嫌いとしては、本日オーソドックスに豆カン。

このツヤプチの塩豆の食感ったらもう
王者。
勝利。
以上、新井薬師終了。
の前に、


おー今年は琴奨菊と琴恵光っすかー。

去年の写真出てきました
琴勇輝でした
峰崎さんが引いてるのね、
でんでんとか吉澤京子とかは不動なんだね、とか。



で、このあと紅葉坂おりて鍋横の本町の弥生町のメトロ車庫の方南通りの…って
3時間くらい彷徨してたのね。
結局新宿出ちゃったからベルクで足休めしようと思ったら結局立ち飲みでしたよ、とか

そっから更に新小岩までワープして、亀戸まで歩き直しましたよ。
恐るべし「歩く祟り」


いや、あれだね、
深大寺の門前も甘味茶屋とか普通以上にいっぱいあるんだけど、
いまんとこラーメン出す店が見つからなくてさ、あれなんでなんだろねぇ。

仕方なく結局お雑煮で濁してるし







土曜日, 4月 11, 2015

食べる総理大臣 とかその他


TIME 1999年4月26日表紙


というわけで、夕方のエントリーに続いて。
試食・試飲する政治家の画。

前首相の野田佳彦氏、なんだかまたオニギリ食べてるなー、とか思って、
なんとなく溜め込んでた画像庫からその他の画像を一部放出。
って言っても現職首相が人前でもの食べて見せるようになったのは、小泉純一郎氏以降くらい、
ここ10年くらい、急にカメラの前で食べるのが当然かなんかのようになった。
それでも鳩山由紀夫氏なんかはカメラの前で絶対に食べて見せなかった。

まーとりあえず現職総理あたりから。


1.岩手県宮古市 田老魚市場を視察し、ワカメを試食する安倍首相(左)と根本復興相 2013年04月06日


2.ふくを試食する安倍総理(首相官邸) 2012年2月25日




3.南三陸町では被災した商店などでつくる仮設の「南三陸さんさん商店街」に立ち寄り、地元産のかまぼこを試食した  2013年7月29日



4.佐藤組合長(左)の説明を聞きながら、相馬沖で捕れたタコなどの魚介類を試食する安倍首相=福島県相馬市・松川浦漁港 2013年10月19日



5.株式会社伊藤商店の加工食品を試食する安倍晋三首相 岩手県大槌町 2014年7月2日



6.キャベツ等を試食する安倍総理 東松島市 2014年7月16日.




7.福島県産のキュウリを試食する安倍首相 首相官邸 2014年7月24日




8.衆院選が公示されて福島県相馬市で第一声を上げ、地元で捕れた魚にかぶりつく自民党の安倍晋三総裁 2014年12月4日




9.神奈川県三浦半島の「葉山牛」のローストビーフを試食する安倍首相、首相官邸 2015年2月26日





前総理から数点

10.鮮魚店で焼き魚を試食する野田佳彦首相=7日午前、福島県いわき市 2012年7月7日



11.視察に訪れた上川端商店街でぜんざいを食べる野田首相=福岡市博多区 2012年11月10日




12.衆院選の候補応援のため函館入りし、朝市でイカ刺しを試食する野田首相=北海道函館市 2012年12月1日





前総理はオニギリ食べてるか、他のものを前に食べずにニッコリって絵が多いのでこんなもん。

で、それ以前の総理大臣はもっと少ないので、総理在職中以外も試食じゃないのもとりまぜていきます。


13.場所不明 イチゴを試食する菅直人首相(当時) 2011年4月21日



14.福島のあづま総合体育館で県産野菜を試食する温家宝中国首相と佐藤知事、菅首相、李明博韓国大統領 2011年5月21日

今思うと豪華な顔ぶれだなあ。現総理なら逃げ回る面子だ。


15.例のカイワレ、菅直人厚生 労働 大臣(当時) 1996年8月




16.長崎県五島 伊勢海老の味噌汁を試食する麻生首相と志内大浜海業振興会代表 2008年12月7日




17.コンビニにマンガ買いに行ったついでにアイスで一服する麻生財務大臣 2013年6月18日




18.(北海道十勝)地元産のジャガイモなどを試食する麻生首相 右から2人目は中川昭一氏 幸福農業センター 2009年5月22日





19.愛知県阿久比町 米粉加工食を普及推進する議員連盟の設立総会。米粉パンや米粉めん、米こめまどれーぬを試食する福田首相 2008年6月12日




20.小泉純一郎元首相は、タイのトムヤムクンヌードルを試食し「辛いね~。でも、うまい」と絶賛 カップヌードルミュージアム 2011年9月18日




21.旭川青葉店内に飾られたラーメン食べてる大勲位

via: らーめん行脚 by kkc


こっからは総理でもなきゃ国会議員ですらなかったり
試食/試飲でもなかったり、嬉しそうに食べる人、涙目で飲む人、あれこれ


22.東京有楽町の交通会館「ニッポン・サイコーキャンペーン」 甘利大臣はじゅんさい鍋を試食し、「おいしくて体もあったまる!」とご満悦の様子でした 2007年12月26日




23.経済産業省が「植物工場」をロビーに イチゴを試食する二階俊博経済産業大臣と石破茂農林水産大臣 2009年1月22日




24.片山さつきと白いタイ焼き浜松市浜北区 2009年7月3日




25.野菜サラダをほおばる丸川珠代参院議員ら自民党議員=東京・永田町 2011年3月30日




26.福島県産の農産物直売イベントでトマトを試食する枝野官房長官 2011年4月12日




27.自民党の谷垣禎一総裁は5日、福島第1原発事故の風評被害を防ぐため都内で開かれた福島県産農産物の即売会に参加した。谷垣氏は甘くてうまいと言いながら大粒イチゴを試食、4パック入り5箱を8千円で購入した。 2011年4月5日




28.金町浄水場の水を飲む東京都の石原慎太郎知事 2011年3月24日




29.記者会見で、浄化処理した福島第一原発の放射能汚染水を飲む園田康博・内閣府政務官=東京都千代田区内幸町の東京電力本店 2011年10月31日





30.カナダのハーパー首相がアザラシ肉食べて商業捕獲支持を表明。写真はアザラシ肉を試食するハーパー首相(中央)ら 2009年8月18日




31.ノルウェー産のサーモンのすしを試食するノルウェーのストルテンベルグ首相 東京都世田谷区 2012年11月2日




とりあえず本日はここまで。
よくまあ集めてたなー。まだまだあんだけど。






おにぎりを試食する○○首相

農業法人「六星」の従業員らに説明を受けながら、
おにぎりを試食する安倍晋三首相(2015/04/11石川県白山市)


以下古い順
大玉村の仮設住宅では地元産の新米で握ったおにぎり2個をほおばり、
「まいうー(うまい)」。(2011/10/18 福島県大玉村 )

福島県産米のおにぎりをほおばる野田首相右は佐藤知事
(2012/10/07福島県本宮市)
福島県のオリジナル品種「天のつぶ」のおにぎりを食べる野田総理
(同上)

福島県広野町産のお米で作ったおにぎりを頬張る安倍晋三首相(右)と山田基星広野町長
(2013/10/25首相官邸)

風評被害対策で視察に訪れた水田で、振る舞われたおにぎりをほお張る安倍首相
(2014/09/17福島県広野町)


安心安全な食を求める消費者の不安は、原発事故以降
倍加する一方ですが、生産者にとっては不安どころじゃないですもんね。
はっきり言って県連議員の点数稼ぎみたいな儀式に過ぎませんが、生産者にとっては
死活問題ですからね。
ネット上では食べなかったらもちろん、食べたら食べたでアレも食えコレも食えと
バカ騒ぎしてるだけですけど。
いろんなところ行っていろんなもの食べさせられて、カメラに向かってポーズさせられても
いやな顔一つせず食べなきゃいけないんだから総理も大変ですね。
野田前首相もずいぶん食べさせられてましたのでついでに上げときます。
ニーズは無いんでしょうけど。

オマケ (2014/12/02福島県相馬市平釜漁港)




おにぎり以外の写真、他の人の写真も追加しましたよ







日曜日, 3月 15, 2015

東大農学部に新しくできたハチと上野博士像


冒頭一発かますけど、当分出てこないハチと上野博士


去る3月8日、本郷の東大、ってか住居表示で言うと文京区弥生なんですが旧本郷区な農学部キャンパスに、ご案内の通り「ハチ公と上野英三郎博士像」が完成・お披露目されました。
昨日小石川牛天神あたり梅見がてらブラブラしてるうちに湯島天神も覗きに行きたくなって、
そうとなればと思い出して寄り道してきました。

新旧取り混ぜながら例によってたいへんおせっかいな話。
画像は重いし回り道もくどいよ。




「文京区弥生」と言いましたが、ご存知"弥生式土器"の標識片が出た弥生です。
が、この"弥生式土器"がどっから出てきたのか、
諸説入り乱れて現在わからなくなっちゃってます。
まー大体この辺だ、と。
「発見地」と称しながら自信なさげな案内板
というわけで明治17(1884)年、東大の敷地を拡張したり整備したりするなか、坪井正五郎らが、
なにやら赤焼きの壷を見出しました、と。

折から明治5年(1872)には新橋-横浜間に鉄道が開業。
その工事中に携わった日本人の誰も気にも留められなかったようですが、
明治10年(1877)6月に横浜に上陸した途端のE・モース博士が、
2日後に東京へ向かう道中の車窓、大森の切り通しになにやら貝殻片の混じる地層を見出す。
後日取って返してつぶさに調べると、こりゃ間違いなく古代生活遺跡であるぞ、と。
それまで日本の歴史家、とりわけ国学者なんてものは昔の遺跡なんてまるで関心無い。
記紀および諸々を紐解いて、てんで勝手に解釈するのが商売だった。
専門家がそんなもんだから、政権も世間も同様、
前方後円墳は茶畑にするわ、平城京址には近鉄線の線路敷いちゃうわ。

そんな中、切り通しの土手に埋もれた貝殻に「御雇外人」が目の色変えて面白がってる。
「これか、埋まってるもんほじくり返してしげしげつぶさに眺めて愛でる、これが学問というものか」
と感心した帝大の先生方の中、
とりあえず掘り返して出てきた壷片を大事に取って調べてみたら、
どうも大森から出てきたもんと様式も成分も違う、別の時代、別の文明のもんじゃないの?
って思って、とりあえず取っといた。
これが弥生土器の始まり。

その後もその後、90年経った昭和49年(1974)に、現在の浅野キャンパス下の小汚いある意味文化遺産的な職員住宅(写真なくした)のそばの朽木のウロから、遊び場にしてた根津小学校の生徒が土器片・貝殻なんかを発見して再注目されました、と。

その場所は大体わかってる。
ただ明治期の坪井博士らが掘り出した地点は、もうわかりません、と。

先の写真の案内版が立ってる向かい側にも記念する石碑が建ってるんですけど、
「弥生式土器発掘ゆかりの地」と、すこぶる煮え切らない碑文となっております。



さて「弥生式土器」についてはこの辺にして、話を次に進めるどころか遡ります。
「弥生式」の「弥生」ってなによ? という話。

このあたりに「弥生」という地名がついたのはそう古くないです。
江戸時代の後期と言うかほぼ末期、最後の将軍慶喜の御尊父、水戸家の徳川斉昭が当地に立ち寄った際に詠んだ歌が元になってます。 いや、歌には詠まれてすらいないんですが。
名にしおふ春に向ふが岡なれば世にたぐひなきはなの影かな
と詠まれたのが1828年3月(弥生)の時だった、ってだけです。

それ以前は「向丘(むこうがおか)」の一角に過ぎませんでした。
だいぶ前ですが、文京区にも住居表示の整理変更の波が襲ってきた時、
このあたり住民は一致団結して抵抗した結果、「弥生」の町名は無事守られました。
「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑を建立したのはその 連中 町会員だったはず。


「ハチと上野博士の話はまだですかね」
ぼくもそう思います。

そろそろ農学部キャンパスに入ります。
が、すぐにはハチの話にならなそう。
とりあえず、東大本郷エリアの図面でも出しながら甚だおせっかいな案内が始まります。
図の左が北です。
東京大学 本郷・弥生・浅野キャンパス構内図

図の左下、「農正門」から入りましょう。
駅で言うと丸の内線・大江戸線の「本郷三丁目駅」より南北線の「東大前駅」の方が近いです。
次に近いのは千代田線の「根津駅」

入るとすぐ左側に「朱舜水先生終焉之地之碑」が建ってます。
朱舜水先生」ってのは、明の国使として日本に渡ったとたん、その明が順に滅ぼされてしまい、帰るとこ失って途方に暮れながらも帰国交渉をしようにも肝心の順もあっという間に滅んで清に乗っ取られ、どーにもこーにも路頭に迷ってたとこ水戸の黄門様のお抱えになりおおせた人ですね。
自分の国が滅びたもんだから光圀に憂国思想を植えつけて「水戸学」に走らせた皇国史観のきっかけみたいな人だと理解してます。


先の「弥生」の項で書こうと思って冗長に過ぎるから我慢してたんですけど、
一応時代背景とかその枠組みの確認として、やっぱ書いときます。

江戸時代のこのあたり、現在の春日通りと本郷通りが交わる本郷三丁目の交差点、
「かねやす」のとこですね、そこの角から本郷通りに沿って東側の現東大用地は、1kmくらいにわたって南から順に加賀の前田様、水戸の徳川様、信濃守の小笠原家が並んでました。
後に本郷通りに面した側は、度々の大火で神田日本橋芝方面から焼け出されたお寺が続々と移転して来るんですが、って打ち込みながら、あれ、それってなんか最近聞いた話だぞと思ったら、つい昨日本駒込の吉祥寺のこと書いたばっかだった。あれも本郷通り沿いのもうちょっと先。

現農学部のあたりは水戸家と小笠原家にまたがってるんですが、たぶん水戸家の敷地ですね。
光圀の食客ですし。でここで御客死なされたと。

その「朱舜水先生終焉之地之碑」のすぐ後ろ、てか前の写真の後ろにも人だかりが見えてますが、
そこに「上野博士に飛び寄るハチの像」があります。
お待たせしました。

ただこの場所ですね、ちょっとした林の中なんです。
だからあっちこっち影ったり日が当ってたりで、写真撮るの苦労すると思います。

これ正午ちょい前ですが、素で撮るとこんな感じでまだらになったり背景明るすぎたりしますよ。
南から

先に上げたキャンパス構内図をご覧下さい。
親切に赤丸で示してあるとこがこの像の位置です。
で、上野博士が東、ハチが西の立ち位置となっています。
正午頃なら南側、像の銘板が入ってる正面側から日が当ってちょうどいいかな、
なんて思ってたらこんな感じになります。
さっきの構内図には更に親切なことに方位コンパス付けときました。
何が親切って、正午ごろの日当たり加減をイメージしたドロップシャドウもつけてみた。
むしろ西に日が落ちて本郷通り側の塀の陰に隠れた頃合いの方がましかな、と。

でも日当たりもあるし、銘板あんだからこっちが正面っぽいので、
だいたいみんなこっち側から写真撮ってます。
では反対の北側から撮ってみましょうか。

北から

とこんなかんじでギャラリーがいっぱい写し込めます。
こっちはこっちで上野博士が駆け寄るハチに思わず手放したのカバンの様子なんかもくっきり見えて結構なんですけど、南側から撮ってる大勢さんにしたら、とんだ邪魔者ですよ。
なんか日当たり加減調子良くって人っ気の少ないムシのいい時間帯、無いっすかねぇ。
人っ気まるで無いけど日当たりもまるで無い3時台のハチ公口の近頃


ところで写真撮ってるうちに気になって、近寄ってしげしげ眺めたり撫でさすってみたりしたんですけど一向に判らないことがあって。
ハチの首の下あたりに掛かってるイボイボの帯みたいの、何ですかね。
ハーネスにしては中途半端な位置ですし。
その下の胴の切れ目みたいのも気になります。
なんか着せられてたって拵えなんですかね。

それとついでだ、もう一つつっこんどこう。
秋田犬は待ちわびたご主人と再会したとき、耳は左右にぴーんと寝るんだよ。
子母澤寛が「愛猿記」という名の愛犬本所収の作品中で、それを度々「かんざしを挿したよう」と描写してた、あれ。





※追記:
わかった、ハーネスみたいのこれだ、な。
そーいや かはくみどり館のハチもこんなの着けてた気がしてきた
渋谷のも着けてたっけ?



ところでついでに、しては面倒くさい長話になりますが、結構だいじな話。
本日のキモかも。
なんで上野博士とハチ邂逅の像が弥生キャンパスにあるんでしょうね。

ご存知の通り上野博士は渋谷駅の近く、現在の東急本店の裏あたりに住んでました。
東急が百貨店始めたのは昭和に入ってから。
道玄坂上に本店構えたのは東横店や東急会館より更に下ってオリンピック後。

で、出勤時には渋谷の駅までハチと同道、帰宅時には改札口までハチがお出迎え、
これ定説になってます。
が、
実際当時上野博士は渋谷駅ばっかり通ってたわけじゃないんですよ。
My Map作ってみたんだけど、どうやって貼るんだったっけ、忘れたので画像。

真ん中の青いマーカーあたりが上野博士宅。
右の赤マーカーはご存知渋谷駅ハチ公口。
そして左の赤マーカー、これが当時の「東京帝国大学農学部正門」

ハチが現大館市の二井田村で産まれたのは大正12年(1923)11月10日、
その二た月ほど前の9月1日には関東大震災がありました。
震災当時の本郷の帝大の様子は寺田寅彦の随筆にもたびたび書かれています。
寅彦は「地球物理学者」でしたが、同僚だった今村明恒はズバリ「地震学者」で、その今村に師事した地震の島村先生が、震災当時の今村博士の日記をWEB上に註釈付きで公表されています。
「震源までの距離は初期微動の継続時間に八を掛けると得られる」とか、
別バージョンでは平田銛(平頭銛)の平田森三博士の話もチラっと出てきたり、大変興味深いですよ。

宮崎=ジブリ作品の「風立ちぬ」も冒頭で震災とその日の帝大の様子が描かれていました。
あれにあるように本郷の帝大の建物自体、揺れにはある程度耐えたんですけど、赤門近くの医化学教室で倒れた薬品の瓶から出火、そこを起点に時計回りで三四郎池を一周するように順次火が回りました。

赤が焼失・被災建物、数字は延焼順
なもんで、その後の再興に当って、全学横断的に施設の整理改革が行われました。
それまで農学部は駒場にあったんです。

ちょっと面倒くさい話なんですが、本郷キャンパスは旧水戸徳川家の地籍を元に、隣接する加賀前田家の土地を駒場農学校の土地とトレードする形で第一期が形成されました。駒場の旧前田邸は曲折を経て現在都有の公園として昭和の初めに建った洋館和館を残しています。
でもってそうして削った駒場の地の一部を更に向丘にあった「旧制第一高等学校」と交換して拡張します。
それがおおよそ現在の弥生キャンパスです。
交換して移転した「旧制第一高等学校」用地は現在の筑駒のあるあたりです、たぶん。

さて震災から年が明けて大正13年1月15日、ハチは秋田から上京するひとの例にたがわず、
オコモにくるまれて上野駅に着きました。
ハチが送られてきた時の荷札
でじたる渋谷 忠犬ハチ公のおはなしより
〽上野はー おいらのー 心の駅だー くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった
当時のハチはこんな歌まだ知りませんでした。
そもそも上野はオマエの新しい飼い主だ。

上野博士は農業土木の大家であったので、ハチが自邸にやってきた時点すでに、震災復興で関東全域を飛び回り、その合い間に農事指導で全国を飛び回り、さらにその合い間に農学部再建の折衝で霞が関を飛び回っていました。
労苦が祟ったか、翌大正14年(1925)5月21日、駒場の農学部で開かれた教授会会議の終了後に倒れ、そのまま不帰の人となります。
「最後の講義中に」ってのはリチャード・ギアの映画の設定かなんかだと思います。
とにかく上野博士がハチと過ごしたのは超多忙の1年4ヶ月だったのです。
たったの。
濃密な。


当時の府内の交通事情については面倒くさいのでだいぶ割愛、
震災前はまだ現山手線の東京-上野間が未通で一周完結してませんでしたから、
本郷の帝大に行く時は省線渋谷駅から池袋周りで駒込か上野下車というところでしょうか。
霞が関に行く時は渋谷駅東口からの都電9系統(だいたい現銀座線)、もしくは10系統(だいたい現半蔵門線)といったとこです。
渋谷駅東口と言えば
「今時の人は渋谷の東口の都電や都バスが溜まってたとこ、"ヒカリエ前"っていうんだってねぇ」
「昔はなんていったんですか?」
「アタシら古い東京もんはねぇ、"シカリエ前"って言ったもんだねぇ」
 といった余計な小ネタをはさみつつ、
ハチとは渋谷駅でお別れ、晩には迎えに来てね、と。

それ以外にですね、結構まだまだ駒場の農学部にも出勤してたんですよ、上野博士。
あのー山手通り沿いの「山手らーめん」ある並びのね、
あそこ今、交差点名が「東大裏」ってなってますけど、本来あそこ正門だったのね。
帝大農学部時代は。
キャンパス再編後、戦後井の頭線の駒場東大前駅ができたり、学制改革で教養学部を集約したりしてるうちに正門じゃなくなったけど。
で、先に上げた地図通り、渋谷駅と変わらない、徒歩十分とかからない距離なです、上野宅から。
てか近いから渋谷の大向に家持った。
上野博士とハチは、結構駒場キャンパスに同道してたらしいんですよ、当時の証言とかで。
駒場の仕事の時は、キャンパス内や正門付近で待機してたと。
上野博士が急逝した当日も駒場の農学部に見送りに行ってたと。
出迎えにも行ってたと。

だからね、
上野博士とハチが出会うのは、渋谷の駅頭か駒場キャンパスの旧正門前でなくちゃならない。
本来は。生きてればね。
両者死んじゃったからね。
魂の再会ってことで、弥生でいいじゃん。

それにさ、ハチの剥製、弥生からも遠からぬ上野の科学博物館にあるよ。
みどり館で南極から生還したカラフト犬のジロと並んでるよ。
だからもう弥生でいいじゃん。


となると青山墓地で上野博士と並んで埋葬したとされてるハチは何なんだ?
皮剥いたの焼いたの?








さて、今日書こうと思った用件は済みました。
後はお茶でもいかがですか。

弥生キャンパスの一番奥の向ヶ岡ファカルティハウスってとこにカフェってか、レストランバーってか、そんなのがありますよ。
さっきの構内図に青丸で印つけときました。
いわゆる学食とはちょっと違います。
本来、遠方から来た研究者を迎える宿泊施設、とそれに付随する飲食施設、ということで、
それなりにちょっと洒落てながらもこなれたお値段。
研究者ってか、平日日中はご近所ママ友の溜まり場の様相もあるくらい、学外者でもまったく問題なく入れます。
アフリカの民芸品みたいの主調にした天井も高く明るいカフェ。
ランチ千円前後からあります。やたらオーガニックだし。
お昼の繁忙期はともかく、お茶だけでも全然大丈夫。
こんな写真しかねえや
で、この店、ってか学内施設か、
裏が東大名物雑草自然に生えるがままの庭になってて、
その向こうに裏出入り口があります。
普段門扉には鍵が掛かってるんですけど、店員に言えば開けてくれます。
外から入る時は、インタフォンもありますから呼び出せば開けてくれます。
さすがにお盆は休業してたの図
この裏口から出た先正面は異人坂、左に出て石段降りると根津教会の道です。
そのまま谷根千散策開始できます。

異人坂
一旦本郷通りに出て、あるいは専用歩道橋を渡って本郷キャンパス行ってみるのもいいですね。
工学部1号館前には呪いにかかったように早咲きする有名な桜があります。
構内図の黄色くしたあたりです。
2015年3月13日 例年通り狂い咲き

一番南、先の構内図の右端の龍岡門や春日門から出て春日通りを左(東)へ、
1分かそこらの最初の角を左に曲がったとこにお寺の山門が見えます。
麟祥院です。
春日、春日と言いました、その由来の春日の局の墓所です。
また東洋大学創設者の井上円了先生がその前身たる「哲学館」を開いたとこです。
今の時期、椿が終わりかけ、橙がたわわになってました。
写真撮ってたガイジンさん撮ってた

春日局御廟所
「三葉葵」の紋所がお目に留まれば
右には母方実家は稲葉家の「折敷に三文字」
高貴な仏の無縫塔、いわゆる卵型
これ墓石の角が朽ちなくて結果的に経済的だよね

周辺案内始めるとキリ無いんだ。

赤門から出て本郷通りの近江屋洋菓子店、外見ではそんなに気付かないけど、中に入ると神田連雀町の本店と寸分違わぬ間取りで、しばらく居るとどっちにいんだか判んなくなって気持ち悪いよ。けど本店同様スープドリンク飲み放題500円(+税)付けてケーキやサンドイッチ食べるのはいいね、とか、
春日門の内側に去年あたり出来た、予約の取れない"湯島くろぎ"の菓子専科"厨菓子くろぎ"もお高いけど流石だね、何が流石って学内の学生や教官職員よりご近所の愛犬家とかで賑わってるもんね、とか。


構内図の右端、ピンクで印つけたとこに、懐徳館ってのありますよ。
オリジナルは明治40年前後に建てられた当世最高級、天皇陛下迎えたくらいの建物だったんだけど、ご他聞に漏れず戦災で焼け落ち、現在のは再建されたレプリカ。
それでもさすが建物もお庭も結構なものです。
運がいいと年に数日、公開お茶会なんかで入れますが、
残念ながら普段は学生でも絶対立ち入り禁止です。
門柱で常勤番が目を光らせてます。