火曜日, 3月 10, 2020

国鉄、とか鉄道省とか日本鉄道とかのデタラメが東京の地名を蹂躙してた件

今回あえて「高輪ゲートウェイ」については一切触れませんよ。


土地鑑無い薩摩や長州の田舎っぺが江戸以来の地名地称を無恥無神経に踏みにじった一群の話の一端。

まずは豊島区が日本鉄道のデタラメをカサに文京区の町名を強奪した例から

目白

目白と言えば年寄りなら全国区的に連想されるのが田中角栄の「目白御殿」。
あれは室町時代から続く三管領家の細川氏の屋敷の一部を割譲してもらって建てたもの。
角栄もまさか細川の坊ちゃんが第79代内閣総理大臣になるとは思っちゃなかったろに。
細川家の地所は和敬塾として分離独立させたり、物納で文京区立肥後細川庭園や目白台運動公園になったりしたものの、未だ永青文庫としてほんのり残ってる。
角栄目白御殿も相続の際に一部を物納して運動公園のテニスコートとして活用されてる。
ポンジョこと日本女子大学目白キャンパスも、
これらが常識的に言う「目白」
なのに行政的には「文京区目白

google mapから
色が薄くなってる辺りが「豊島区目白」
赤丸は戦災のどさくさで不動像が豊島区高田に持ってかれるまで江戸五色不動の一つ「目白不動」があったとこ、今の住居表示では「文京区関口」。
その間あたりが「文京区目白」。


日本鉄道が1885年、赤羽ー品川間、市街化されていない未開の土地を買って線路繋いで郡部にこさえた途中駅に目ぼしい地名も無く最寄りの名所の名を借りて「目白」と名付けたのは百歩譲って許せなくもない。
東京市15区時代には豊多摩郡だった豊島の野良が、35区に拡大されて吸収されるドサクサに、小石川区の台町とか老松町とか青柳町とか各々町名を固守していた目白一帯を出し抜くように、新規参入豊島区が「だって目白駅があるもん」ってだけで「豊島区目白」を謳った。地名を乗っ取った。
なので昭和4~50年代の住居表示再編の諸町名まとめる際に文京区側はやむを得ず「目白台」と称した。

歴史ある本来現文京区の地名を省線国鉄の威光を借りて豊島郡が盗んだ例は続く。
パターンなので、なるべく詳細は省くよ。

大塚

地理院地図から。

だいたいざっくり黒い線で切った切った上が豊島区、下が文京区。
ここも旧来より市街地たる本来の駒込地区を避けて、用地の安い郡部に線路敷いた日本鉄道が無責任に駅名「大塚」と名付けたばっかりに、市制内に編入されて調子に乗った豊島区が「線路の北は北大塚、南は南大塚」と称した結果、
南大塚の南が「文京区大塚」になってしまった例。
京急の「品川」から南に一駅行ったら「北品川」の例に似て異なるけど面倒だから今回は触れない。

駒込


これもまた豊島郡の名も無い野良に設置した駅に、直近の名のある地名「駒込」をつけて、現豊島区が駒込称したせいで、地図で白っぽくなってる文京区側の本来の駒込が略して「本駒込」とせざるを得なかった例。
詳細略。


「鶯谷」ってのはさ、今で言ったら「夕焼けだんだん」の谷中銀座、あれの一本二本南の蛍坂とか防災広場とかの一帯を言ったんだ。
それが丘まるまる一つ斜めに越えた、谷でもない岬のヘリみたいとこに駅作っといて鶯谷とはなんだろね、とかもあるんだけど。


「品川駅」は港区で、「目黒駅」は品川区、「旧目黒駅前郵便局」は港区なんてのは、まー今回いいや。

北千住

「北千住」なんて地名は今も昔も無いの。
千住が発展したんでその手前、千住大橋の内側が「南千住」称してはいるけど。
これもまた院でも省でも国鉄でもなく日本鉄道がやらかした話なんだけどさ、南千住から北に進んだ次の駅だから「北千住」って名付けたの。
あそここそ「千住」なのに。

かつての町名に「千住北組」ってのはあったけど、それはあくまで千住の各丁の一つ。

だから昭和生まれの千住っ子は地元を「北千住」とは名乗らない。
最寄り駅が北千住なのは認めるけど。
三田の子が「田町です」って言わないのと一緒。
下手すると住所氏名欄に「千寿」って書いちゃうくらい。
近頃続々のマンション系住民は「北千住」と名乗って抵抗無いんだろうけど。



うわ、やべぇ。
これキリ無いや。
「田町」も「新橋」も「秋葉原」も…
地元の実象を知らない鉄道省や国鉄が無責任につけた駅名がその後に及ぼしたもろもろ。

「御茶水」 「高田ノ馬場」
ほら気持ち悪いだろ。

水曜日, 8月 28, 2019

芝浦「やまや」覚え書き

先日、芝浦は高浜橋のたもとにあったホルモン部落の昔話をしてたら、
どうにも噛み合わない。
「ネットで見たら、」とか言ってるんで、早速インターネッツ巡視してみました。
したらあーなるほど、と。
晩年の、21世紀の体験なんだな、と。
なので、そのほんの10年ほど前の90年前後、
芝浦(正確には海岸)に”Gold"があった頃の「やまや」についての、
ごく一面的な局部的な話を書き留めときます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まず、最初に「やまや」(と後に呼ばれるようになった店)の発見の経緯ですね。

当時、「やまや(仮名)」の正面にはもう一軒の家が建ってたんです。
小屋ともバラックとも言えますが人が住んでる家が一軒、
「やまや」の間口の1.5倍くらいの幅の家が確かにあって、
なので「やまや」は旧海岸通りからは直接見えませんでした。
後にぶっ壊されて妙に膨らんだ歩道になってたあのスペースです。
隣の「はるみ」(当時違った名前だった気がするけどなー)は通りから丸見えで、
看板煌々と照らして盛業中でした。
なので、そっちには2,3度行ってました。
映画「タンポポ」の焼肉シーン、あそこの2階席じゃないかなーとか。

ある夏の日のその晩も何軒目かで「はるみ(ホントにそんな名前だったかなー)」に行くつもりで、

その前にちょっと路地の陰で立ちションでもと思って表の家の裏に回ったら、
角曲がったとこに共同便所あるんだけどね、電気無いから暗くて怖いしね、
そこに一軒の店がありました。
おやこんなとこにも、それが「やまや(仮称)」でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その頃の「やまや」は8時閉店を目標に、

隙あれば7時でも6時でも平気でやめちゃう柔軟な店でした。
だからそれまで気付かなかったんだと思います。

その日はたまたま暖簾が上がって明りが点いてるもんで、

じゃあ今日はこっちにしてみるか、と入った、んじゃなかったかなー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

婆:なにするー 早く決めてヨー


のちの姪っ子参入時代とはまるで違いまして、

当時の「焼キ肉ク」の品書き、「赤」「白」「レバ」だけでした。
「赤」は今でいうハラミ、それとなんかのスキ身、
「白」は消化器腸管系、
「レバ」は肝臓とそれに似たなにかでした。
牛なのか豚か、はたまた何なのか、考えたくもありませんでした。
ーーーーーーーーーーーーーーー

:じゃあ赤ふたつに白一つ、あ「ヤサイ」ってどんななの?

婆:玉ネキとかー 中ネキとかー うー…
:あーまーいいや、じゃそれもひとつ、いや二つ

赤二つ白一つ、それにタレ

まとめてぶっこんだボウルくっちゃくちゃ捏ねながらやってきて
生焼けのジンギスカン鍋にジジーっとぶちまけて、
テーブルにこぼれた肉をつまんで鍋に載せながら

婆:油とタレ、このヘリ落ちるてしょー、

  このヘリに豆腐並べるとトーフ沁みて美味しいヨー
:あっじゃあ豆腐も頂戴!
婆:無いヨー 

婆:はいヤサイだよー

:玉ネギと長ネギだけじゃんかよ、「とか」はどこ行ったぁ?
婆:玉ネキはヤサイだヨー
:…うん、知ってるよー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ビールやなんかは拾ってきた自販機みたいのからセルフサービスするシステム。
無いものねだりすると片道4,5分かかるローソンにパシらされるスタイル。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

:ゴハン頂戴!
婆:ゴハン? ゴハン食べるの? ナンデー
  何杯食べるー
:いや…一人一杯、〆て5杯、くらい?
婆:じゃー… 借りてくるよー
:いーよっ、後でよそで食うから

婆:オバチャン、来週里帰りで休みネー

:里はどこだい?
婆:大田ヨー、一週間くらい休みネー
:一週間か、暑いしねー、市場休みだろー、ニク大丈夫?
婆:たいじょうぷだよー うち全部冷凍たから

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

携帯電話がまだレンタル制だった時代ですね。
社用貸与だけじゃなく個人持ちも普及し始めた頃。
ポケベルでいうと数字表示できるようになってた頃。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

:ここ何時までやってんの?
婆:だいたい8時。お客さんいないともっと早く閉める
:それじゃ早いなー、なかなか来れないよ
婆:電話くれたら開けとくヨー
:じゃ電話教えて、〇〇〇-〇〇〇〇、や ま や、と
婆:やまやってナニヨ?
:この店の名前だろ、ノレンに書いてあんじゃん
婆:あーアレ、拾ってきたのヨー
  店の名前なんか無いノ、「おばちゃんの店」でいいのヨー
:それじゃこっちが判んねーよっ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

リバーサルやモノクロネガは結構あったんだけど、フィルムスキャンまですんの面倒。
奇跡的に紙焼きが墓箱にあったので撮ってホイ。
この日はトーフがあったようだけど、いい味出してるのはオヤジ。
この箸使ってる豚足みたいの、オバチャンだなー。





一年半ぶりのエントリがこれかよ

木曜日, 12月 07, 2017

「名栗往還」大全 の序章あたり の1/3

前日ついに名栗往還をまっとうに貫通踏査できました。
で帰宅してからも楽しくなっちゃって、
翌朝も早起きして原市場目指して、
今回はカメラの準備もばっちり。うるさいよー。

「名栗往還」はすんなり通り抜けて堪能する人と、
こじらせて無念抱えて帰る人と、両極あるみたいなんですが、
今までのぼくは後者の負け犬でした。
でも貫通しました。なので、
「もう迷わない 名栗往還」と題して、細々覚え書きの次第。

丸の内線、西武池袋線、国際興業バスと乗り継いで
原市場中学校前に着いたのが07:30頃、余裕。

07:24
07:25

この先の旧道と新道のχ字路を左折、
中学校のグランド脇をゆるゆる登る。
ここ既に「名栗往還」。

舗装路の緩い坂道三十分ほど登ると、ちょっと狭くなる。
けどまだ舗装路は続く。

07:57
ここまで左(西)に入る道がいっぱいあるんだけど、とりあえずスルー。
舗装路の終わりまでまっしぐら。


アスファルト舗装が終わっても砂利舗装は続く。

落ち葉舗装
 で、右手の断続的な家並みが途切れたとこで、
本格的に未舗装路に。
「通行禁止」のバリケードにひるむけど、
よく見ると小さな字で「自転車・歩行者を除く」ってあるんで突入。


こっから自然道。
2/3に続く。



と思う。



水曜日, 12月 06, 2017

「名栗往還」ついに踏破した

清東橋BS 07:34
これと夜明け前の青梅駅での写真しかない

かねて御執心の埼玉県は飯能市の「名栗往還」。
下から行こうとしてダメ、
上から行ってダメ、
また下から今度は入ったけど最後の詰めでダメ。

順序から行くと今回は上から。
なので奥多摩町川井スタート、棒ノ折越えて入口の名栗目指すよ。


ところでカメラの話なんですけど、
スペアに新しくバッテリーパック買ってたのね。
なのでいったん満充電したバッテリー前日までにフル放電して再充電。
それを装填してあった。
朝出発前のどさくさに、なぜか残量少ない元のバッテリーパックに換装。
折からの寒さもあって、数枚撮っただけで終了。
なので今回写真は冒頭のものだけです、よかったね。
その分文字数でがんばるよぼく。

JR青梅線が川井駅に着くの07:17で西東京バスが川井駅前出るの07:17って、
連絡タイトすぎやしませんか。
いくら川井駅前ー清東橋間は自由乗降区間だからって、
そっちの道筋に出るのだって少なからぬ階段降りなきゃなんないんだし。
乗り場知ってたからバス停通り過ぎようとすんの手を上げてギリで乗れたけど、
知らない人は無理よね。

さて終点清東橋BS到着07:40
で百軒茶屋の先から登山道へドロップイン。
実測2㎞足らずで550m登る鬼道も、つい2週ほど前に通ったばっかだから
はーぽっくりぽっくり登ってりゃマギレも無いしいずれ着くさー
ってなもんで09:20棒ノ折山頂
こんな時間に4人もいたよ、どっから登ってきたのかね、
って向こうも思ってるかも。
さすがにこの時間帯、
大声談笑も熊鈴カリカリも山頂標にザック置いて横で弁当使いもいない
清々しい朝。

東屋で本日の一大財産チョココロネを処理しつつ、
同じく「なぜか他人と行き合わない道が多い」人と情報交換。
カラダ冷めないうちに再開。

槙ノ尾山頂10:00。
ここから落合に降りて行くわけですが、
このザレザレの下り道がなかなかこたえた。
浅間尾根の猿石東から藤倉に降りちゃった経験あるぼくには
屁とも思わなかったけど。
屁とも思わなかったから2度にわたる道ロスト。

一回目は迂回路から先で、ピンクテープに誘われ作業領域へ。
だってあの地面スレスレに打ち込んである境界域のあの赤い標柱まであんだもん、
あれズルイなあ。

普段歩いてるとこ肩幅の道とか片足幅の道とか、
選択の余地なく迷わないんだけど、
慣れない広いとこ出ると踏み間違えるんだよ。
こないだも御前山からサス沢山に降りるとこで、あまりの幅広さに間違えた。
その時は緩斜面を水平で50mくらい入ったとこで違和感があって、
地形図見たら尾根筋もしくはその東を行くべきとこ、これ西側だよな、
このまま降りて降りられなくもなさそうだけど、
降りた先って小河内の熊の巣だよな、
って思いなおしてすぐリカバリー。

今回は垂直で100mは行っちゃってた。
もうこれ無理ありえないって思ったけど登り返すのも癪だし、
西の尾根に向かって登り気味にトラバース。
ちょっと上に道しるべみたいの見えたんでそこまで崖よじ登る。
本道復帰。
でもその道しるべによると、
復帰までにあがいてた道中、本道と交差してたみたい。


Q:「名栗往還」の話いつ出んの?
A:ずっと先

2度目のロストは、
もう有馬渓谷釣り場のさんざめきが聞こえるようなとこ。
あれあれっと思ううちに足元の踏み跡感が薄れてた。
まぁいいや、釣り場の私道も眼下に見えるし、
このまま立ち木に抱き付きながら斜面サーフィンでOK、
とか思って降りてて、最後の最後で抱き付いた立ち木が「ぺしっ」
麩菓子みたい感触で折れましたね。
久しぶりに尻餅つきましたよ、正確には尻ではなく左腿でしたけど。

これは飯能名物 四里餅(しりもち)
via:さいたま逸品ぐるめぐり

さいわいふかふかの土と落ち葉と枯れ枝の斜面だし、
そんなに深刻な高さ落ちたわけでもなく、
打ち身も無く、ズボンの左腿がドロに擦れただけでした。
でもこのズボンで電車乗んのかっこわりー、
いや高校球児なら勲章だ、とか思いながら、
後で乾いてからハタいたら中途半端に落ちました。
もう最低。

で、釣り場に着いたのが11:40だってさ。
本来そっからもう一丘登って降りての予定でしたが、気が萎えてて。
ダム湖沿いをとぼとぼ歩きました。

「レイクサイド名栗」到着12:15
躊躇したんですけど、なんか食べといた方がいいな、と思って入店。
山菜うどん、半分くらい食べましたよ。
ところが同時入店のよぼよぼジジババ、
2人で3杯食べましたからね、山菜そば。
あーもうこっちが先に死ぬなって思いました。

で、このあと川又まで降りるんですけど、橋渡らない。
渡らず北西に川沿いの、たぶん静かな道がある。
これ辿って旧名栗村役場、名栗小中学校に通る道を探る。
きっとよかろうと思って。
これがとんだ大間違い。
ちっとも良くない新道風情。
あ、でも鳥居観音下の市有広場かなんかの公衆トイレ、
ウォシュレットもオストメイト対応もあっていいよ。

いや川沿いに掛かる橋を大小片っ端から渡ってたんだけどね。
川又から2本目の鍛冶屋橋に出る橋なんかいいよ、
欄干も無い板橋で。下は清流ちゃらちゃらで。

てっきりこの右岸沿いが旧道だと思ってさ、
いやもしかしたら旧道なんだろうけど面影まるで無く。
単なる鳥居観音の参道、及び役場や学校がある道。
学校があるならあるでさ、校門前に文房具屋とかさ、
道筋に「小学館の学習雑誌」みたい看板の書店とかさ、
あって欲しいじゃん、まるで無いね。

あーこれは旧道だ、って思ったのが、
あの凶悪県道53号から割れる道。
下からウロコに張った水色の板塀の旧農協、
「関東ふれあいの道」指定のバス停からやや南、
星宮神社からのほんの200mくらいで終わる二間道。
これはかわいかった。
終盤、畑なんだか裏庭なんだかに紛れて消えるんだけど、これこそ旧道。
もしかしたら対岸の役場や学校がある道が旧本道で、
こっちは野良道なのかもしれないけど、
現在の風格はこっちが断然上。


Q:名栗往還まだですか
A:はい、もう入り口に差し掛かります

鍛冶屋橋の信号交差点戻ったのが13:40でした。
ここから「コア山」過ぎて、
「右が山、左が谷」ってのがだんだんイーブンになってきたあたりで、
「仁田山峠」14:05着です。余裕。

前回、竹寺方面に向かう送電線の保守路の入り口が見えない、
とか言ってましたが、
余裕で黄色標柱立ってました。

ガードレールの南端に「仁田山峠」の表札が掛かってるんですが、
「名栗往還」の入り口はガードレールの北端です。
徒歩でもう15秒ほど頑張ってください。
本日の時点でガードレール北端にピンクテープ巻いてありました。
ちょっと急なザレ道なんですけど、躊躇なく入りましょ。
途端廃墟(じゃなくって現住物件だったらごめんなさい)があって、驚きます。
もっと驚くのは、そっから踏み慣らされた径を降りると、
忽然とログハウス(建坪60くらいあんじゃね?)が現れます。
見ようによると高床式校倉造りっぽくもあります。
ここで「蕨入林道」と合流します。
ってか「蕨入林道」が「名栗往還」を踏襲してるわけなんですが。
なんでそー言い切れるかってと、古い墓所や祠が沿道に散在してるからです。


ーーーーーーーーー中断ーーーーーーーーー


ーーーーーーー再開 しないーーーーーーー


面倒くさくなった。
だってすぐ翌日おさらいに行ってきたんだもん、
詳細はそっちで。




水曜日, 11月 29, 2017

原市場から名栗往還、竹寺、子ノ権現、吾野駅まで

「名栗往還」、いい響きですね。
行ってみたいじゃありませんか。

って同じような書き出し、5日前のエントリーでもやりました。
で結局どうなったかっていうと、
JR川井駅から棒ノ折山頂、白谷沢、名栗湖経由で鍛冶屋橋の原市場名栗林道入り口に着いたのが14時頃。時間の無い中入り口の分岐を見落としスルー、気がついたらおサルの国に降りてました、って話。

実は今年の3月14日にも挑んでいたんです。
その時はJR青梅駅からまっすぐ東青梅を抜けて岩船寺の裏から霞丘陵を岩蔵に出てゴルフ場二つ三つ迂回しながら原市場に着いたのが15:30、名栗往還諦めて県道出たり入ったりしながらさわらびの湯に浸かって帰る、というものでした。

2017年3月14日 16:40
旧名栗郵便局
一回目、散々な目に遭う 
二回目、落とし前をつける
三回目、余裕。 by 矢沢永吉

安易な気持ちで来る者は入り口にも近寄らせない奥武蔵のガンダーラ「名栗往還」
前回、前々回の教訓を糧に、今回は飯能駅からバスで原市場に向かいます。

飯能駅北口国際興業BT出発 07:08

飯能駅から飯能河原間はおとな100円こども10円!

07:39
難なく原市場中学校バス停まで到着。
もうスタート地点に立ったも同然です。
なんたって名栗往還は中学校の脇から始まるんだから。
バスって便利。
最初っからこうしてりゃ良かった、
と後から言うのは誰でもできる。
しないでいい苦労を買ってでもした人にしか言う資格の無い言葉もある。
最初っからこうしてりゃよかった。
この日一番の紅葉景色だったかもしれない
名栗中学校校庭からの眺め
中学校脇から人家が点々と連なる坂をゆったり登り、
舗装も人家も途切れたところからが本当の始まり。
もうここまで来たら9割9分踏査も成功、と思ったんだけどなー。
08:25 
舗装が切れて自然道になったとこの「この先 通行禁止」バリケ看板、
小さく(自転車・歩行者を除く)って書いてあるけど、自転車も無理だと思うよ。
段差よじ登るようなとこは無かったけど、倒木だらけだったし。
こんな腐りかけの木橋もある。
08:51
でもまぁまぁ大崩れしてる箇所も無く、
昔の往還らしい優しく静かな道だなあ、と思ってたあたりから、
約一時間ほど写真の記録が飛ぶ。
時々そうゆうことあるね、道ロストしました
いやもう終点間際だったんだよ、
上に林道のガードレールも見え隠れしてきてて。
ところがその辺から急にマギレが増えて道が不明瞭になってきた。
とそこに住居跡らしき石垣組みがあったからついそっち乗っちゃったのね。
古い飲料缶やら割れた茶椀やらお馴染みの旧道の仲間たちも参加してて。
そっからの道が見えないんだよなー、
目印明瞭だし戻ろうと思えばいつでも戻れるんだけど面倒くさい。
上のガードレールが近づいてきた地点で思わず直登、これがいけなかった。
ガードレールまで5mくらいある崖の下に出た。
こっから30分程もがいて藪漕いで
ようやく林道に這い上がって離脱、日陰に倒れこみましたよっと。
09:58

一息入れたとこで気を取り直して再出発。
本来の出口「仁田山峠」へ向かう。
どうやら2つほど東の沢から上がってきちゃってたらしい。

10:15
たしかにこのガードレールの切れ目から道あるね。
今度こっちから確かめに行こう。
本日の名栗往還は終了。

さて仁田山峠まで戻ってきたのには訳がある。
まだまだやらなきゃならないことがあるからだ。
送電線の作業路辿って竹寺まで行くよ。
ただ山側に入り口見えないんだよなー、
ってあの鉄製の手すりみたいの何?

10:16
寄って茂みかき分けて手すり頼りに登ってみました。

10:19
正解。
ちゃんと祠ある道に出ました。
でも振り返ると下からも明瞭に道が続いてんだよなー、
どっか正しい入り口あるんだろーなー
あの藪の手すりは何だったんだろう。

10:44
「47号に至る」と嶺という名のピークがあるんですが至らない。
スルー。

道中いくつかの分岐も無事通過、名栗往還でのロスも取り戻したかんじなので
「八幡坂ノ頭」って小ピークでハンモック吊ってしばし休憩。
だって暑いんだもん、20℃とかあったらしいよ、この日。
ところがウトウトっとすると下の方から話し声や鈴の音が近づいては遠ざかる。
おかしいなー名栗往還の舗装路部分の登校の中学生以外、
今日もヒトに遭わないで来ましたからね。
30分程で早々に畳み再出発、直後に理由わかりました。
すぐ先で「関東ふれあいの道」に合流してんじゃん。
人通るわけだ。

ほどなく竹寺鐘楼に到着。
12:02
こっからもアレ見えるのね
12:02


 こんなモヤかかるほど暖かかった。

竹寺本体に到着。
12:10

中国の民間から贈られた牛頭明王
ってか西遊記の牛魔王だよな、若干ブレジネフ入りの

TVショッピングの高枝切り鋏なんか寄せ付けない
 ほんとこうゆうのとか明治神宮拝殿前のクスノキとか、
どうやって剪定してんだろうね。

さてバスで来てたジジババの団体がうるさかったので早々に退散。
次は子ノ権現まで。
ってこれ丸々「関東ふれあいの道」なんだよなー。
12:24
山に甘いもしょっぱいも無いよね。
甘いのはハイカー登山者の安易な楽観であって。
と2時間前の自分を棚に上げて気を引き締め再出発。

12:26
さすが「関東ふれあいの道」、きれいに整備された優しい道です。
名栗往還にこの半分でもいいから手入れしてくれればいいのに。
なんて思いながら歩いてたら1時間ちょいで子ノ権現に着いちゃいましたよ。
もう少しかかる予定だったんだけどなー。
まあいいか、着いちゃったもの引き返す訳にもいかないし。

ホントこんな写真アップするやつの気が知れないよな
13:33

鐘楼からの境内
13:36


杉皮茅葺きに千木鰹木も乗ってる大屋根の下に銅葺きの唐破風。
で本殿でも社務所でもなく寺務所つき本坊。
神仏習合ってかもう出鱈目に近い、良く言えばおおらか。
さっきの竹寺もそうだけど、なんなんだろ奥武蔵。
明治政府の目が届かなかったのかね、実に結構。

さてお昼にします。
山行きの前日に時間が取れたおかげで「笹巻けぬきすし」を用意できました。
ここで御開帳。
七ッ入のお決まりからタマゴ抜いて替わりに鯛を入れてもらいました。
でも七ッ入ってこんな折箱詰めでしたっけ。
あー1月のエントリーでくどくど書いた時も折詰だった。
その時の道中も道ロストしてるし滝壺はまったりしてるじゃん、とか
んでまたこれ買いに行った時もイートインしちゃってるのがいたよ、とか。
まあいいや。
もういっぺん寄りの画入れとこう。
せっかくだから大きく、ドン。
一つ二つ笹剥いて撮れよ 無精だなあ

さて仁王様に見送られて再開。
三千! じゃあ俺は五千出す、みたいな
13:56
カリンカリン熊鈴鳴らすのが後ろ着いてくる。
うるっさいなーヒトいるとこで鳴らすなよ、
クマいるとこ行って聞かせて来いよとか追われるように駆け降りて
あっという間に降魔橋。すごい名前だなー。
14:20
この降魔橋からは舗装路なんだけど、
知らん顔して関東ふれあいの道指定は続いてんの。
時々道標も立ってて。

14:22
「いずくもおなじ秋の夕暮れ」
「心なき身にもあはれは知られけり…」とかって前回もやったっけ。
前々回かな、薄暗がりの人里峠から降りてきた時か、
えっそんなエントリー無い? おかしいなあ。
あーそうかTwitterに写真連投してただけか。
まーとにかく山から里にこんな道をぽくぽく降りて来て、
竈から立ち上る煙とか窓に灯る明りとかの秋の夕暮れがたまらないんだよなあ。
まだ2時過ぎだけど。
山の東側だからもうすっかり陰ってんのね。
今日は何かと予定より早過ぎ。
地蔵堂だと思って撮ってて後から大きくして見たら
屋外型神棚みたいもんだった
14:23

14:25
辿り着いたらいつも休業。
確かに平日が多いしもう慣れっこだけどさ、
ほんといつもよくよく休業日に当たるもんだ。才能だね。

14:38
ナーナー言いながらネコが突進してきた

まだ来る

まっすぐ一目散にナーナー寄ってくる

もうダメつかまる

これが足の間入って尻尾絡ませてくるわ
道に転がって腹見せるわ、はしたないったらないの

無視して路傍の七福神撮ってたら

強引にフレームインしてきてこの顔
なんなのオマエ

もうすっかり降りきって吾野の町外れ、東郷公園だかの近くの橋。
もうかなり日が落ちてるから色が出ないや。
15:04
もっともたいして色も着いてなかったんだけど。
東郷公園、御岳神社周辺は「もみじまつり」絶賛開催中、
だったのか間もなく開催なんだか、いっぱい幟が立ってた。

はいはい赤い赤い
15:08
とここで突然舗装路が終わり、
関東ふれあいの道が思い出したように自然道に復帰。
15:12
この先の線路の法面や上の斜面に人ぶら下がって、
なんかの補修工事みたいのやってた。
足場作業場確保したいけど杉の木立ちも守りたい、
ってんで大胆かつ画期的に解決。
よく見るとやっつけ仕事的でもあるけどこれぞ現場の応用力。
15:17
吾野鉱業所の脇を通る。
貨車引き込んで砕石積むホッパービンに滑車みたいのが立ち並んでて恰好いい。
あー今度は積み込み見たいなーと思ったら、引き込み線もう潰してんじゃん。
15:23

そこへ警報機が鳴り特急登場
15:25

吾野駅到着
15:30
さてさて飯能行きの電車はすぐ来るのですが、
せっかくまだ明るいし吾野宿をさらっと見物に行きます。

「観光みやげ」ってあるけど
特産品なんてビニール袋入った柚子くらいだったよ
15:31

10分とかからず吾野宿にさしかかる。
幅員がそれなりの宿場だったらしいことを物語る。
15:40
「藤田屋」
大正期だろうなー、和洋折衷ですらない洋装和式の旅館跡。
景観重要建造物でもBSアンテナやエアコン室外機ダクトはいいのか。
仕方ないよなー、現住で生活してんだし。


のほほーん
ここは旅籠ではなく問屋跡、現在はカフェ営業してるらしい
もちろん閉まってたけど

さくっと流し見て駅に戻る。
あー構内踏切だったのか。
16:02


明るいうちに引き上げる。
ヘッドランプ使わなかったのなんて今月初めてじゃないかな。

飯能で乗り継ぎ。
直近の次発が特急だってんでもう乗っちゃう。
これで池袋の乗換え混雑が少しでも回避できれば安いもの。

以上、
今回も「名栗往還」貫徹とはいきませんでしたが、
まあだいたいは通ったようなもんだ。
今に見てろ。