火曜日, 10月 27, 2015

「大相撲と戦争」を見て

番付が出たので国技館に行ったら相撲博物館の企画が「大相撲と戦争」でした。
西南戦争から太平洋戦争終了の復員後あたりまで、
いつものように、ほんとはもっと持ってんだろに出し惜しむようなそれでいて充実したような、
なかなかジワジワくる展示でしたよ。

ってなとこでインスパイアされてもろもろ思い出したこと覚え書き。


展示の方は、噂には聞いてた四股名と出身地の間に「応召」とか「入営」とかの但書きある番付とかね、
前日までの東西の得点が書いてある割り紙とかね、
「国民精神総動員」時代のあれとかね、
そんなのの実物見られて面白かったです。

で、そんなの眺めながらモヤモヤっと脳裏に思い浮かんだあのエピソード。
お相撲さんが製塩業やりかけた話。



昭和20年3月10日の空襲で国技館も焼けました。
 (ここに焼けてる写真or焼け残った写真をきっと後日挿入)
それにそれどころじゃない。大相撲興行なんてやってらんない状況。
でお相撲さんは何してたかってと、「勤労動員」行ってた。
力仕事なら得意だろうってんで引っ張りだこ。
そう、吉村昭の「東京の戦争」にもそんなシーンが描かれてた。
西新井橋のたもとに停まった二所のお相撲さん満載のトラックの荷台の真ん中に
玉ノ海が仁王立ちしてた情景とか。
出羽一門も同様で、軍需省の手配であっちこっちの現場に行かされてたんだ。
時給18銭×10時間+握り飯3個で。
1円80銭もらったとこで、食い物売ってないんだからどうにもなんない、腹は減る。
一門力士痩せ細る一方で、こりゃなんとかならんかと。

で後に理事長にもなるキレ者の出羽ノ花、当時春日野部屋を実質預かってた年寄武藏川、
現四つ万の市川市の市川さんに養子に入った國市さん、
これが八方駆け回って、「塩が足らんらしい」と。
塩ってどうやって作るんじゃい、ほうそうか、そりゃ力士に打って付けじゃい、
と塩作りを思い立った。
さっそく静岡の用宗海岸に土地を借りて試作、
これの出来が良かったもんで中島飛行機から引き合いが来た。
ジュラルミン作るのに塩が足りなかったらしくて。
でもそれ断って現地の農家と物々交換で食い物もらう手筈をつけた。

現地の準備も万端整って、さあ静岡に塩作りに行くぞーって一門力士4~50名、
トラックに積んでさあ出発だ、って朝に、
「おいおい待て待て、ちょっと待て。今日の昼にラジオで重大放送があるらしい」
って足止め食ったのが8月15日。

用宗の製塩設備は放り出して現地の人にタダであげちゃったらしいです。
流れ流れて、今は鈴与グループが持ってる製塩所がそれなのかな。




「どうせ死ぬんだから遺体の目印に」って二の腕に四股名を刺青して戦地に向かったら生きて帰れたんで慌てて半田ゴテで刺青焼き消した吉葉山の話とか。

空襲中の消防での活躍買われて立浪部屋にスカウトされた七ツ海、うちの親爺と手相撲て飲み歩いてたんだよなー、立石でちゃんこ屋開いて、ずいぶん前に亡くなってるけど息子娘が今も継いでて行かなくっちゃなーとか思ってるんだけど行くとやってねんだよなーとか。


もろもろ巡った展示でした。