金曜日, 10月 03, 2014

歩きに秋田に行った話 6/6

スタルヒンの墓参り (8月13日分)

秋田シリーズ堂々の完結篇、長かったな~、
今日もまだまだ長いけど。
1エントリに写真70枚くらいあるらしいですよ。ちょっとしたブラクラ。パケ殺し。


今日は十文字から雄物川町まで歩きます。
11日の道中は、ろくに歩道も無いとこにクルマの通行が多くてとにかく辟易しましたが、
今日はたぶんルート的にクルマ少ないんじゃないかと期待してます。
歩道あるとこも少ないだろうけど。

出立は9時半でした
このあと郵便局行って要らないもの送ったりしてたから、実際の出発はもう少しあと。
いちおう今日も「丸竹食堂」の前通ってみましたけど、店開ける気ゼロ。
十文字3日泊まって結局十文字中華そば食べれずじまい。

なんかいきなりいい感じの建ってますね
富澤公民會館

なんだろう、これって思って20秒くらいみつめてました
「ととのいましたー ふるさとの恵み」

なんか奥の方にまたすっごい球場みたいの見えますよ
Field of dreams ですか

「死亡獣蓄保冷施設」
そんなのあるんですねぇ
歩くこと約1時間、浅舞公園ってとこに着きました。
立派な土俵

立派な土俵の向こうに立派な球場を遠望
すごい相撲場持ってますね、人の気配まるで無いですけど。
遠くに見える球場もちょっと行ってみようかなとも思いましたが、よしました。
近くに見えて遠いんですよ、あーゆうもんは。
平鹿野球場、両翼100m、中堅122m、収容客数約10,000人ですって。
すごいなー、この辺歩いてる人もいないけど。
ま、国体用に作ったってんですから大いに結構です、僻む気ありません。

相撲場の方は十文字にもあったらしいです。
でも横手市のサイトにはこっちの平鹿相撲場が県内随一って書いてあるからそうなんでしょう。

この公園で巡業できるよね。
近くに屋外ステージもあったから「お楽しみ歌くらべ」もできるよ。
キャンプサイトに宿舎作れるし、山稽古もし放題。

この公園
昭和48年から昭和55年 第一期 事業費1億3900万円 「あやめ園」「和風庭園」整備
昭和56年から昭和59年 第二期 事業費1億3900万円 池と滝、園路、休憩施設を整備
平成2年から平成4年 第三期 過疎活性化対策事業費3億1500万円 「あやめ園」滝を整備
ですって。
そろそろ僻みましょうか、さいわい誰もいないし。


なんかおもしろ看板立ってますよ。
直進↑ 忠義な猫の碑

☞ 忠義な猫の碑
お寺の鐘楼みたいな東屋の中で小学生がゲームやってたんで聞きました。

「そこの木の陰のです」って。

これか!
碑文 ってか立て札文
平鹿郡浅舞村(現横手市平鹿町浅舞)の伊勢多右衛門(1833~1914年)は慈善家として知られた。凶作などの時、困窮した民衆を救うため感恩講を組織し、倉庫に米を備蓄した。また人々に憩いの場を提供するため私財を投じて浅舞公園の工事にかかった。だが野ねずみが大量に発生し、倉庫の米を食いあさり、公園の樹木や側溝、堤などまで破損させた。多右衛門は深く憂いた。すると多右衛門が飼っているメス猫が、主人の願いをくんでねずみを退治した。1907年(明治40年)2月15日、猫は13歳で亡くなるまで、日夜ねずみ退治に明け暮れた。こうして民衆の命を守る感恩講の米は守られ、浅舞公園も完成した。多右衛門は、世にまれな、この忠義な猫の功績を後世に末永く伝えたくて、ここに碑を建立したのだった。
                平成23年 5月20日 寄稿 : 小学校教諭 梁瀬 均
ほーそーですか。
市では動画も製作してるみたいですね、あるんだか無いんだか再生始まらないけど。

猫がネズミ捕ってたってだけの話じゃんよ。
アレだ、大館生まれの犬が東京行って忠犬ってもてはやされて像の前に人集まってるって、
口惜しいからこっちは忠猫で人集めてやれ、って。
集まっちゃいませんが。

こりゃ集まらんわ
なかなか立派な神社です。
お参りしときました。八幡様だそうです。

浅舞八幡神社


浅舞市街入りましたがカラー節約

ありました!
新発売 忠義な猫の招福猫サブレー

立派な切妻物件あったんで撮ったんですけど
一軒おいた隣、「元祖 長まんじゅう」って看板が

よくよく見ると、その三軒先にも「長まんじゅう」
浅舞ってか平鹿の名物だそうですよ、長まんじゅう。


浅舞には酒蔵2軒あるって聞いたんで、
ちょっと行ってみようかな、試飲してあれだったら買って帰ろうかなとか、
地図見て行きやすそうな「浅舞酒造」っての行ってみたら、こんな感じ。
浅舞酒造
ダメだこりゃって思ったら、こっち側は裏だったんですって、後でわかった。失敬。

このへんで11時半くらい、そろそろなんか食べとこうかな、店屋も開いたろうし、
この先ほとんど町らしい町無さそうだし、また食いっぱぐれるといけないし、
って探したんですけどどこもやってない水曜日の11時半。

「ふじた」 やってません
分かれ道に来ました。
新平川バス待合所
羽後交通のバス停もあります。
この辺のお地蔵さんって、みんな律儀に6体セットですね。

左:蛭野、右:大雄・高口 ってなってるので、ぼくは左に進みます。


この辺から左手の田んぼから、鳥が飛び立っちゃ行く手に降りるんですよ、たぶんアオサギ。
で歩いてくとまた飛び立つ。
逃げるんなら戻ればいいのに。それとも道案内ですか、導かれてるんですか、ぼくは。

でそっち方面の先の山のそのまた先、雲の下にでっかい山が見える。
たぶん出羽富士こと鳥海山。
ちゃんと写せた写真ないんでアレですけど、なんかいーなぁと。
山の向こうにもまだ山があるんだ、いつか行ってみてやる、とか、
昔の人は思ったんでしょう。ぼくは思いませんけど。

奥さん、それたぶんサギです

なんかキュートな養豚場の看板


でね、突然このへんから道ばたに石碑が乱立してるです。
「耕心養国 秋田県知事 佐々木喜久治」


逆光でなんだかわかんないですけど
たぶん「五穀豊穣」かと

「天時雨澤 秋田県知事 佐々木喜久治」

どのくらい乱立してるかってとですね、
下の写真、左の木のとこが「五穀豊穣」、右の電柱の間が「天時雨澤」
その前の「耕心養国」から5分も無いようなとこに向かい合ってます。
横手市平鹿町浅舞字大樋とかのあたりです。

 左が「五穀豊穣」、右のが「天時雨澤」 

歩いて10分もしないうちに3連発。
誰も通ってないようなとこに。

なんか気になってググると、この先々代かなんかの知事 佐々木喜久治って人、
そこいらじゅうに石碑残してるみたいです。
盆地の農地だけじゃなく山の方のダムとかにも。
よかったですね、死んじゃっても方々に名前残せて。


遠目で「ビバ!花畑」って書いてあんのかと思ったら
「ヒルノ花畑」でした

幾つ目でしたっけ、床屋の廃墟。
床屋廃墟@蛭野
物流革命で地方の零細、壊滅してますもんね。
きっとこの辺の人はAmazonでアタマ刈るようになりましたかね。

分かれ道の家の玄関先に いきなり墓場

地蔵堂
ほんときっちり六地蔵そろえるよなー

おや、また地蔵堂ですか

たぶん大中嶋から上中野の間だったんじゃないかと思います。
松の木陰にまた地蔵堂、と思ったらなんか様子が違う。

わら人形立ってるし

夫婦っぽいですね
なんだかよくわかんないけど、写真撮っといたんです。
で、後述の「雄物川郷土資料館」のお姉さんにこれ見せて聞いたら、

「あーそれカシマサマですねー」 って。

詳細はたぶん後述。


また道ばたに墓
なんで道ばたに墓立てるの? 石碑建てるの?
ここなんか神社の鳥居前じゃん。


とかとか思いながらひと気の無い道を歩いてると、沿道から視線の気配が。

なんかいる

飛び出しぼうやだー
ってかオマエずるくね?
やっぱ道ばた、なんか突然建ってるし。

「菊池金八郎」だそうです
「菊池金八郎」、なんか岩手の亀ヶ森村々長に同名の人いますね。
その人でしょうか。
よく見ると、脳天から口端にかけてヒビ入ってます。
大槻ケンジの元祖でしょうか。


ふと空を見上げたら、雲の形になんとなくデジャヴゥ。
いかん、ピントが無限遠までいかない
カメラ叩いたら治ったけど、今度は陸が写ってなかった
なんだこれは。
見上げるかんじの角度とかインパクトとか、そうだアレだ。


ほぼ雄物川町にはいりました。
入って最初の建物は沼館保育園でした。
ぼくは会塚という集落方向からテクテク歩いてきたので、こっちから入りましたが、
普通雄物川町には別の方面から入ります。

後から知ったのですが、この沼館保育園を昭和19年に創設したのは
当時の崇念寺住職の高橋義雄という人で、設立時は現在地ではなく崇念寺境内にありました。
この人は明治の終わりに洋画家を目指してヨーロッパを目指し出立、
行きは日本人の嫁を連れて行ったはずが帰りはなぜかロシア人の嫁を連れて帰ってきた人です。
そのロシア人嫁との間に産まれた息子は現在の崇念寺の住職をしています。
娘は後に神田ニコライ堂で大柄なロシア人と出会い結婚しました。
たぶん後述。

今、目の前に見えてる気がする田んぼは遺跡なの?

木戸五郎兵衛村入り口
田んぼを抜けて辿り着いたのは、なぜか木戸五郎兵衛村の裏でした。
明治-大正期の民家・農家を4,5軒ほど移築保存してある公園なんですが、
こーゆうのは外面だけ見ててもしょうがないんだ。中に入れないと意味無い。
だってどうかするとその辺の集落に同時期の建物が現役で残ってるんだし。
中まで入れるようにするとなると入場料収入だけでは維持管理できないんだろうけど、
屋外保存だけだってカネかかるんだし。
そもそも町外れの県道バイパス沿いに唐突に建てたって誰も来ないし。
それ以前に雄物川町自体、観光客なんてほぼ来ないんじゃない。


いよいよ町に入りました。
雄物川町沼館というところです。
後三年の役の合戦もあった古戦場です。
ちなみに近くにはJR東「後三年」の駅もあります。ほんの12kmほど東に。
横手市ですらない、仙北郡美郷町です。華王錦の産地です。



ご利益いっぱいうれしいな

またなんかわかんない史跡が出てきました。


市川團之丞の墓所、だそうです。
「鎌輪ぬ」の七代目團十郎の門下で「岡本新内」(岡本派新内とは別らしい)を創始した人、
みたいです。


さてこの辺で13時半頃、そろそろなんか食べなきゃいけません。
今日も結局朝からなんにも食べてません。
町に入ってすぐの食堂、やってません。
お盆だから仕方無いです。
おでん屋あったけどやってません。その後5時頃開いて焼鳥焼いてましたが。
お寿司屋、もうこれでいいや、盆地の奥の山辺の街の寿司、案外いいかも、
やってませんでした。
そのすし屋の脇から出てきたオバちゃんに聞いたら
「あら、じゃあ薬局の隣のタキザワ食堂行ってごらんなさい。ここら開いてるとこ他には無いから。」
ってんで行ったら薬局2軒もあったけど食堂見当たりません。
開いてる方の薬局に入って聞いたら、
「あ、そこ。隣。やってるかなぁ、さっきまではやってたけど。」
薬局と薬局の間の店、 言われてみれば食堂のように見えましたけど、もちろん終わってました。
8月13日(水)14時前の話。




もういい。いったん食事は諦める。
本日の目的地といえば目的地、スタルヒンの墓に向かいます、って滝沢食堂から2分で到着。

崇念寺の入り口
「スタルヒンの墓」ってバナー立ってます

お寺入るなり迷うことなく発見

「栄光の名投手 ヴィクトル・スタルヒンの墓」
1916-1957
「栄光の名投手」って言いますが、ぼくの中ではどっちかってと「悲劇の名投手」、
あるいは「歴史と二国間の関係に翻弄されたアレ」ってな位置付けです。


なんか綺麗ごとばかり書いてありますが、たいへんアレな生涯だったと思います。

ヴィクトル・スタルヒンは1916年、エカテリンブルクの北100km余のニージニ・タギル生まれです。
翌年いきなりロシア革命勃発。
親族に帝室付武官がいたが故に一家はボリシェヴィキに迫害され、東へ東へと落ち延びます。
大陸からはみ出しサハリンへ、ついには北海道旭川まで至り、
ここで一家がつかの間平安の地を得たのが1925年のこと。
なにぶんほんの20年ほど前に日本はロシアを負かしましたから敗戦国の一家です。
それでも当時の日本、北海道は度量があった。
非公式亡命で無国籍だったヴィクトル少年をなにも言わずに小学校・中学校と受け入れました。
でも敗戦国から亡命してきた子、学校ではイジられキャラだったそうです。
それでもいつもニコニコ受け流し、みんなの後ろを嬉しそうについていく子だったと。

ざっくり琴欧洲イメージしてもらえればいいかと。ぼくはそうしてます。

そしてその間両親はロシアパンを焼いて売ったりして生計を営みました。
ヴィクトル少年も授業が終わればすぐに売れ残りのパンを持って近所を売り歩きました。
街中を回り終えると、同級生らがいる河川敷に回ります。
同級生たちは野球にこうじています。
ヴィクトルはルールもわからず、それでもニコニコ見ていました。
同級生たちはお腹が空くとヴィクトルくんちのパンを買って齧ります。
そのうち、「お前、ガタイいいんだから、ちょっと打ってみろ、投げてみろ」となります。
たぶんね、たぶんだけど、クリチコ兄弟とか、ヒョードルとか、大鵬父とか、ヴィクトル古賀とか、
そんなコサックの血が流れてたんじゃないかと、たぶん。
いきなり途轍もない身体能力を炸裂しちゃったわけです。
それからルール習って基礎練習して、旧制中学入る頃にはいっぱしの野球選手だったと。

後年ですが留萌で野球覚えて旭川に移った北の富士をイメージ、しなくていいです。

ところで両親の商売はそのうち軌道に乗って、一軒のミルクホールを構えます。
たしか常磐公園近くのあのロータリーの近く、ずいぶん以前に跡地の銘版を見た気がします。
支店みたいなカフェーも増やしてたんじゃなかったかな。
そこで大事件が起こった、と。 ほんとに起きたのかでっち上げだったのか、
今となっては誰にもわかりませんが。
ヴィクトルの父、コンスタンチン・スタルヒンが従業員を殺した、と。
ロクな裁判も無いまま、無国籍人の父は獄門につきます。
残ったスタルヒン母子は、どうかするとボリシェビキ待ち受けるソヴィエト連邦に強制送還です。
当時日米野球で連戦連敗の苦杯を舐めていた中央球界の、
警察官僚上りの正力松太郎らによる嵌め手であったとも言います。
職業野球からの誘いを断り続け、旧制旭川中学でトモダチと一緒に甲子園に行き、
早稲田への進学を夢見ていたヴィクトル少年の人生の舵はここで大きく切り替わりました。

「そつぎょうまで プロには ぜったい いかない☆ みんなで コーシエンに いこ☆」

その約束を守れず、誰にも告げず、スタルヒン母子は人目を忍んで夜汽車の席に着きました。
着の身着のまま夜逃げ同然、ロクに荷物もなく、
ただ膝の上に握り締めた友達から貰った木彫りの熊に、ボタボタとヴィクトルの涙が落ちました。

そして日米野球日本チームに帯同、
そのまま大日本東京野球倶楽部(2年後の東京巨人軍)に入団、
その後の活躍は輝かしい碑銘の通りです。

戦時中に敵性国人名から「須田博」への強制改名、軽井沢への隔離収容など、
強引な引き抜きの割りに巨人軍からの庇護は冷ややかだったようです。
巨人軍への忠誠なんか無かったんでしょう。
ただその巨人軍入団直後の監督、藤本定義には良くしてもらい恩義を感じていたようです。
戦後再開したプロ野球でもパシフィック、太陽ロビンス、金星スターズと藤本に着いてきます。
その頃も登板のたび、ベンチには必ず例の「木彫りの熊」を携えてきていたと。

そして1957年のオフ、おりしも東京都内で行われた旧制旭川中学OB会の当日に、
その会場に向かうまさにその時に「謎の死」を遂げます。

旭川時代のヴィクトル少年
没後、荼毘に付したお骨は生前ほとんど縁の無い雄物川町の
ヨメの実家であるここ崇念寺に弔われた、と。

はぁ~良かった、雄物川町の話に戻ってこれた。

このヨメの出自と馴れ初め、その父である先代崇念寺住職高橋義雄氏の波乱の人生なんかについては、やってるとキリがないんで割愛。


さて、墓前に来てみたものの、供える線香もございません、店やってねんだから。
で、ひと気の無い本堂脇のインタホン鳴らして人呼び出して聞いたらジジイ出てきて
「あー、お線香なら本堂にあるの持ってってくださいね」
って言われちゃって、仕方ないから本堂上がって一束もらって、
うーん、こーゆうの相場判んないんだよなー。
ウチの墓参り行く時、100円とか書いてあるとこ二束で千円とか五千円とか置くもんなー、
とか悩みながら置いたのが200円。

ヴィクトルとその夫人ターニャ久仁恵スタルヒンの墓碑銘
建立した娘のナターシャさんは現在美容コンサルかなんかしてます

お線香をあげ、帰ろうとしたところ、さっきのジジイに呼び止められました。
ジジイの正体は、ヴィクトルのヨメの弟である現御住職の高橋大我様でありました。
いろいろ資料を頂き、お話を伺いました。
去年ロシアから撮影チームがやってきて、スタルヒンの伝記映画が製作されているそうです。
そろそろ完成して今年中には日本でも公開されるかも、と。
スタルヒンの愛娘ナターシャさんがその辺コーディネートしてるそうです。
そんな話の中、
「ところで例の"木彫りの熊"は、今どこかにあるんでしょうか?」
と訊いたところ、
「さぁ~、聞いたことありませんねぇ」 だって。
撤収。
本堂の左の突き当たりね
街に戻りますが、することありません。
バスの時間まで2時間以上あるみたいだし。(後で気付いたけど快速バスがもっと前にあった)
ってか何でもいいです、何か食べたいです。


また床屋の廃墟だよ

「女ズン」ってなに?
こっちじゃそうゆう何かがあんの?

佐々運酒店、開いてた、助かった
外見新らし目だけど中は古い店
なんかないのかって街の地図見たら、デイリーヤマザキあんじゃん!ストリートビューにも載ってる
おにぎりでもサンドイッチでもいいや、なんかあるでしょ、助かったー
けど廃墟でした。


食いっぱぐれたままトボトボと雄物川町郷土資料館とやら入って時間つぶし。
市の紹介文では
雄物川郷土資料館は、県指定の玉類をはじめ、歴史・考古・美術・民俗・自然の各分野にわたって展示を行っている資料館であり、横手市内の資料館施設の中心施設に位置づけられています。
ってなってますけど、またとりとめも節操も無い市民の物置みたいですね。
「各分野にわたって」って物は言い様ですね。

ところが驚いた、奥入って展示眺めるうち、こりゃ大変だぞ、と。

火焔土器
レプリカとかじゃなく実物

火焔土器、部分ならゴロゴロある

遮光器土偶も部分なら現物がある

遮光器土偶、
部分だけど、むしろ両足揃いは珍品かも

石鏃、土産物屋みたいにある
この写真、開架展示してるうちのほんの一部

石匙、石箆もいくらでもある
さらっと岩偶も

このへんってか東北一帯たしかかに縄文遺跡ゴロゴロあるんだ。
で平安期末の戦乱の舞台になった以降はコレといって何事も無く田畑だったんで、
掘ればいくらでも歴史が重層になって出てくる。
特にこのエリアは後三年の役の古戦場だったんで、いろんなもんが出てくる。
とはいえ出過ぎ、並べ過ぎ。


入館料100円だったし、もーこの時点で元は取ってた。
でもまだ終わらない。
横庄線の遺物とかもろもろあったんだけど飛ばす。

浅舞八幡様のご加護かスタルヒン供養の御利益か、
ここで若瀬川登場。

若瀬川栄蔵(1903-1990)の化粧まわし他
この資料館から5kmほど南の雄物川町西野出身の若瀬川栄藏の遺品数々。
Wikipediaに書いてないようだから補足しとくけど、この人も本名は佐藤さん。
先年の桐山部屋の閉鎖で絶えた「○瀬川」の始祖。
ちょっと嘘。その前にいた清瀬川敬之助の手引きで角力入りしたんだから。
清瀬川が旧伊勢ヶ濱部屋を興して以降、
照國、清國、幡瀬川、と横手湯沢のいわゆる秋田県南部伊勢ヶ濱勢の台頭があった。
その一時代を担ったのが、この初代若瀬川。
「清瀬川」とか「若瀬川」って川は無いんだよな、たぶん。
「皆瀬川」とか「成瀬川」って川はあるよ、この辺。
みんなまとまって「雄物川」になる元の川。
あーあと「瀬川」って苗字はやたら目立つ。

とにかく忘れてた。ここで見るまで「秋田の○瀬川」の件。

前の写真のケース、裏に明荷とか稽古廻しとかあんだけど
隙間に首突っ込まないと見えない展示

化粧廻し着用の写真だ
「秋田縣有志」贈なんだな

「二十四代式守伊之助」の銘が添えられた御幣
同じケースに、土俵祭や部屋の稽古場にあるような御幣も入ってた。
謂われも箱書きもなく、ただ「大和谷長右衛門氏寄贈」とだけあったんで、よくわからないけど、
二十四代伊之助は旧伊勢ヶ濱一門の朝日山部屋の人、
こないだまでいた正直(まさなお)の師匠だから、なんかその辺の繋がりかしら。



さて、別室が民俗系というか、農具民具関係のガラクタ集めた部屋があって、
そこで居酒屋の船盛りに使うような舟形の上に無造作に一対の藁人形が置いてあって、
ん?これさっき見たぞ、って思いましたよ。
で、券売兼もぎり兼案内兼監視兼学芸員みたいな、
要するに館内唯一の職員みたいなお姉さんにさっき撮った写真見せて訊きました。

「あーこれカシマサマですね」
「集落の入り口に置くんですよ。災厄や疫病が入り込まないように」

あとからジワジワきました。
「そうか、カシマサマ」なのか、と。

ぼくが道中見かけたカシマサマは30cmかそこらのかわいらしい夫婦でした。
大きいのは大きいらしいです。4~5mもあるとか。往年の「大魔神」みたいに猛々しいお姿で。

でも立ってるだけなんですよね。
強制力をもって異者を阻止したり排除したりするわけじゃない。
入りたければ入ってもいいけど、何も置かず何も取らずに出て行ってくれ、的な。
なんとなくこの数日感じてた秋田人の気概というかなんか。
ぼくはこれを「こころのカシマサマ」と名付け、この後は心に留めてじんわり楽しみました。

ほっといてくれていいから。
押し売り要らないから。
要るものあったら自分たちで獲得してくるから。
ちゃんとやってるから大丈夫。

なんか秋田の人たちのよく掲げる「自主・自立、共働・共助」の精神を涵養している原点というか。
秋田を秋田たらしめ、秋田の魅力を醸すのは、この精神性ではないかと。
これからも秋田の人たちには末永く「こころのカシマサマ」を大切にして頂きたい、
と思いました。いやほんとに。



まだバスの時間までたっぷりあったので空腹がなんとかならんかと町の人に聞いたら、
マックスバリューがあるというじゃないですか。先に教えてくれよ。
行けばきっと弁当・惣菜なんかしらあるだろうと駆け込みました。
入るなり、レジから駐車場へ続々と、寿司やら刺盛りやらオードブルやらカートに山盛りしたお客さんが出てきます、よしっ。
ところが弁当・惣菜売場は臨時編成で、本日はすべて予約販売だそうです。
お盆に集まる親族を迎える支度で街中てんてこまいみたいです。
なんとかヤマザキのカレーパンとトップバリュの麦茶売ってもらえました。

思えば秋田入って最初の食事もラッキーのピザと唐揚げでした。



その頃、17時近くになってましたけど、
それまでクルマばかりで歩いている人なんかほとんど見なかった雄物川の町に、
やたらと歩行者が、それも集団で現れだしました。
みんな手に手に水桶や花束を持っています。
家名の入った提灯持った人もいます。
どうやら一通り集まったので揃ってお墓参りタイムのようです。
ひとりぽつねんとカレーパン齧りながらバスを待つほんの10分ほどの間にも、
何組もの一族が通って行きました。

横手駅行きのバス着たので乗りました。またしても乗客はぼく一人です。

安全鉄則 まんづ止まれ
そういや横手駅に向かうバスの車窓からも1mくらいのカシマサマ見ました。
運転手さんに聞いたら、
「まだまだ大きいのもありますよー」
「え、この道筋にありますか?」
「いやー、この路線には今ので終わり」


その間にも乗客は乗ってきたと思えばすぐに降り、道中のほとんどはぼく一人でした。
そりゃそーだ
こんな朝1本、夕に2本のバスなんて誰が乗るもんか
面白いんで運転中の運転士にみだりに話しかけてみました。
道路運送法第二十八条の1違反です。

「またずいぶんゾロゾロと墓参りが歩いてますねえ、みんなこの時間行くんですか?」
「うーん、集落によっても違うんじゃないかな、ウチは昼に済ませたなあ」
「こんなに人が道歩いてることってあるんですか?」
「うーん、一年で一番運転気を使う日かもしれませんねえ」

横手駅に近づいてからは、同じ道を別系統のバスも通るんでしょう、いくらか乗ってきました。


横手駅到着。
予約してた駅前のホテルにチェックイン。
なんだこのホテルは。半分廃墟。
入り口の軽食ラウンジは営業してない。
フロントは呼ばないと人が出てこない。
エレベーターは1基を残し停止。
部屋のエアコンはオンとオフしかない。
Wi-Fi完備とかって使えるのはフロント前のどっかから拾ってきたような応接セットの場所のみ。
その他もろもろ。


シャワー浴びて外に出ました。
横手駅周辺ぐるっと一回りしたけど、ほとんど店やってません。
バスターミナルと一体化したユニオンという複合商業施設があるわけですが、
その中の秋田銀行と北都銀行のATMがあっておカネ下ろせた。
これは助かった。でも日本円使える店が無い。
ユニオン内も上部階はほとんど空き店舗のようですが、
1階にはアックスとかいうスーパーが入ってました。
なんかあるかと入店。19時前ですが蛍の光が鳴ってました。
こりゃまた秋田最後の晩餐は駅のNEWDAYSですか、と思ったところで、
七兵衛という店が開いてました。
他に店が無いからか、たいそうな混みっぷりでしたが、
こういうときは一人の強み、カウンターになんとか入り込めました。

売りはいろいろあったようですが、
その中からとりあえず「比内地鶏の焼鳥盛り合わせ」と
「当店手作りの えご」というものを頼んでみました。

これがその「えご」
干した海藻を磨り下ろして戻して作ったコンニャクのようなものの刺身。
海藻の風味が利いてて美味しかったです。


後ろの小上りに10人くらいの団体がいたんですが、
二十、三十代の男女ほとんどにオジサンが一人。
地元の話をしてるようで、みんな標準語。
なんかのついでに訊いてみたら、地元高校の部活のOB会だそうです。
道理で、と納得するものの、
「ほんと、皆さんきれいに標準語ですね。方言は出ないんですか?」って聞いたら、
「最初だけですよー、お酒回ってきたらバンバン出ますよーw」
なんて言ってましたが、ぼくが帰る頃まで全員きっちり標準語でした。

この店は横手焼きそばでも大変有名な店だったようです。
カウンター越しに客と店主らしき人の話を聞くともなく聞いてたんですが、

「近頃は横手やきそば名乗る店もずいぶん増えてきたけどねー、決まりごとってもんがねー…」
「うちは古いから。二軒目だから」

とか色々語っておりました。

ならばと思い、シメは本場の名店で横手やきそば食べようかと思いましたが、
隣に運ばれてきた横手やきそば見たら、なんかベチャっとしたかんじで、
おまけに半熟みたいな目玉焼き乗ってんの。ぼくタマゴ嫌いなんだよ。
で、ふとカウンターの上見たら、「十文字中華そば」ってありました。
十文字に3晩泊まって結局食べられなかったあれ。
決まりです、注文しました。

「ウチのはね、横手で唯一ホンモノの十文字中華だから、」

とかよく意味の通らない自慢してましたから、ホンモノなんでしょう。
これも美味しかったです。念願かなってがっついたから写真撮ってないや。
横手でこれなら、十文字でもいくつか食べ比べたかったです。


駅にあったポスター
書体といい色使いといい迷いなく、なんでこんなかっこいいんだ

翌朝早くに横手を発ち、とっとと東京に帰ったんですが (嘘。宇都宮に寄り道した)、
この5日間の結論としてですね、

招かれてるとか実家があるとかじゃなけりゃ、お盆前後秋田には決して近づくな

ということです。
生死に関わる大事なことです。
お盆や正月以外の時期に、きっとまた行きたいな、と思いました。



この写真、なんだっけかなー、思い出せない
「忠義な猫」の 伊勢多右衛門かなー?




木彫りの熊を見るたびに
の名を思い出せ
の名はヴィクトル・スタルヒン




 

火曜日, 9月 16, 2014

あるお好み焼き屋さんの最期

によって取り留めない個人的覚え書きですので、なんか検索して飛び込んでらっしゃった方は Ctrl + f かなんかで手っ取り早くページ検索して用の有無を確かめてさっさと立ち去ると何かと捗りますよ。無駄に冗長な描写や言いがかり、心象の駄々漏らしが延々続くだけです。大半は表題の「あるお好み焼き屋さん」すら関係無い話になる気もします。

う無くなっちゃったから出します、その店の名は「琴ぎく」。食べロググルナビにも運営が電話帳から拾ってきたような空のエントリーだけはありますね、誰もレビューとか書きませんでした。blogで言及した人もいないんじゃないですか。みんなで秘密を共有してました。でもちゃんと実在してました。今日はそんな店の話とかです。ちなみに店名は「斧琴菊」とは関係ありませんが「よく言われるけどアタシ五代目に御縁あるほどお婆ちゃんじゃないわよー」だそうです。実際店内に「斧琴菊」の判じ文様は見当たりません。座布団や厨房と仕切る暖簾の柄は「束ね熨斗」で統一されていました。「琴奨菊」とも関係ありませんが「アタシ名前が似てるからついつい気になって見ちゃうのよー」だそうです。店名は女将さんの日舞の師範名「琴菊」から来ています。流派も聞いてるはずですが5秒以内に失念しました。

は鳥越おかず横丁の一筋北の通りに面してます。この道、一方通行にしてはやや広いです。この辺そういう道多いですね、狭いと千貫神輿が通れませんから。なんてことない一方通行の道でありながら竹町抜けて西へ進めばJRの線路はおろか更に数少ない昭和通りの交差点も貫通し仲御徒町を抜け明神下通りから一方通行は拝み合って向きを反転、湯島を登り本郷通りを越えると下り道、終点壱坂の中程に出て開けたところで眼前には観覧車を透かして東京ドームが聳えてた、っと手短かに道中付け。間口は二間ほど、硝子格子の引き戸をカラリと開ければ左に鉄板入ったテーブル席が3つ、右の小上りに2つ。ご夫婦二人きりで切り盛りしてますが店内は女将さんだけ、ついぞ最後までご主人の姿を見ることはありませんでした、声しか聞いたことない、厨房専任。営業時間は平日の17:30~20:30くらい、たぶん。ぼくの行く時間がアレなのかもしれませんが10回に7回くらいは客だれもいない。その7回のうち6回くらいは後からも客入ってこない。そんな店。でも客は来てるんです、稀に出くわすし材料はいつだって新しいし。

ニューです。「豚玉」「イカ玉」「切りイカ玉」…といった定番のお好み焼きがあります。他に「スタミナ焼き」「琴ぎく焼き」なんてスペシャルなお好み焼きもありました。550~800円くらいだったかと。そういや以前ご婦人客の二人連れ、「アタシ次スタミナ焼き頂こうかしら」、「あら姉さんそれってどんなの?」、「ネギとかニラとかお肉とか入ってすっごいのよ」、「まぁ、じゃアタシも同じの頂くわ」、なんて言ってお代わりでスタミナ焼き各1枚ペロっとやってましたよ、七十八十の婆さんが。お達者な紳士淑女の社交場「琴ぎく」。それから鉄板焼きですね、「帆立バター」とか「イカバター」とか「野菜焼き」とか「ソーセージ」とか、これまた定番、突飛なものはありません。でそれと焼きソバが3種類くらいあったかな、プレーンと「五目焼きそば」と「鳥焼きそば」。「あんこ巻き」とかあったかなぁ、興味ないから記憶に無い。あとは飲み物、以上。こっからがたぶん今日の本題。
 ここに もんじゃ は ありません。



京の、下町の、老舗のお好み焼き屋なのに、もんじゃ焼きが無いですってー?!
それって2ヶ所に大まちがいがあります。
まず「もんじゃ」は本来子供のおやつです。価格帯で言ったら100円~250円、営業時間で言ったら5時6時に終わるような駄菓子屋とかで繰り広げられるフード系遊戯です。もちろん現在のように二千円もするオリジナルなんとかだったり三千円もする海鮮スペシャルだったりを大人がワイワイ突っつきまわすのを否定するつもりはありません。ぼくはお邪魔しませんから勝手にやっててください。
一方東京の昔からのお好み焼き屋ってのは大人の行くとこでした。それもお天道様の下を憚る、秘められた逢引とかの場でした。いやそうじゃなくても出入りしていいんですが。だから基本全席小上り。卓と卓の間は高めの衝立で仕切られてました。子供たちだけでは入れないようなちょっと怪しいとこでした。今見なくなりました、そんな店。どっか残ってるかなー。東京じゃないけど横浜若葉町の「浜銀」、遅くまでってか早朝までやってるから深夜2時3時とかに行くと大変ですね。ジジジーって鉄板の上でなんか焼ける音が響く中、衝立の向うでは何語だか判らない囁き合いとか聞かなかったことにしたい物騒な話とか飛び交ってて。いや飛び交わない。じとーっと垂れこぼれて床に沈殿して淀んでた。秘め事感とか怪しさ満開でした、って今見たら改装したんだ、ずいぶん明るく小奇麗になっちゃって小上り衝立ないじゃん、営業時間以外健全じゃん。ってかついでに見たら「コトブキ」24:00閉店ってなに?ずいぶん行ってないから浦島太郎。
またそれらとは別に学校帰りの女学生が道草食う甘味屋兼業みたいのもありました。三田の地下鉄出て三田図書館の方行く道、今エクセルシオールかなんかになってるとこ、昔は甘味喫茶でお好み焼きもやってたはず。慶応女子、普連土、戸板、東京女子… 女学校過剰にあるんだ、石川町ほどじゃないけど。茗荷谷かなんかでやっぱそんな店に入り込んちゃって落ち着き払って焦ってた覚えがあるけど、どの辺だったかも思い出せない。

は子供相手にもんじゃや駄菓子、夏はかき氷冬はおでん出す店だけど折角鉄板と小麦粉あるんだから夜は大人や家族連れ相手にお好み焼きも出しましょう、と。そりゃ当然の経営努力の成り行きです。文京区台東区墨田区もろもろが好もん習合に向かう中、荒川区は今でもお子様専科が結構残ってます。あらかわ遊園前の「きくや」とか尾久小前の「としちゃん」とか。混んでる時間大人は入るの遠慮しなくちゃならない店。一方中央区は昼も夜も中心はもんじゃ、お好み焼きは添え物って店が月島方面に大発生しました。銀座や明石町一帯からはいずれのスタイルも姿を消し、人形町にファミリー客や会社帰りで賑わう「松浪」「さのや」「初音」、ガチ大人向けってかもはや外人向けに特化した「どれ味」なんかが住み分けてます。足立区も独特の進化・分化を遂げてるようです。千住のルミネだマルイだにデートに使えそうな(前述の通りデートに使う店と逢引きに使う店は別概念)小洒落た店がある一方、ふもとの路地には昔ながらの店がひしめいてます。千住に昔からある店は「もんじゃ」って言いいません、「ぼった」って言う。でもって地元民はあっちこっち浮気しないのね、縄張りが決まってて呼び出されてとか余程の理由が無いとよそのぼったには行かない。臨時休業してたら諦める。って言ってましたよ地元の人が。blogとかで「千住ぼった食べ比べ」みたいのしてる人、たぶん多少離れたとこの人です。一歩離れた視点から対照比較してるんだと思います。地元の人は一軒ずっぷりで周り見えない、存在すらしないかのように。そんなだからぼくもその地元の案内する「今井」しか行きませんが、こないだ行ったら店開けてなくて外に親爺いて「体調崩しちゃってねぇ、まだしばらくは…」てなこと言ってたけど頼みますよ再開してください、他に行き場が無いんですから。「今井」は人気あって夜結構混みます。だからごく近所の人は「持ち帰り」したりします、ナマのを。電話や直接来店で頼んどくと拵えといてくれる。乳白色の半固半液体が一杯分ずつ エチケットポリ袋に入ってて口縛ってある。それをバケツとか大き目のタッパとかに収めて持ち帰る人いますね。注文の電話受けてる時「ナマの? 焼いたの?」なんて聞いてますが、どっちもやだなぁ、どうしてもどっちか選べって言われたらぼくは断然ナマ派。

岸の小田原町で生れたんだけど月島のもんじゃってほとんど行きませんでした。行ってせいぜい上州屋、他は知らない。あれほとんどインチキだと思ってます。ぼくだけじゃないですよ、東京の人、みんなあれインチキだって思ってます。いつ頃からどのくらいインチキって思ってるかってと90年代前半に西仲商店街に如雨後筍ともんじゃ屋が沸いて出てきた頃には思ってました。決定的だったのが「ムーの子孫」って系列が乗り込んできた時。あれ北海道出身の人が、どっかで初めてもんじゃ一回食べて、「あーこったらもんならオラにもできるべや」ってたった一度の見よう見まねで開業しちゃった天才社長の店です。揺れる屋形船の船内で鉄板にもんじゃ流し込もうって新機軸のドキドキゲーム考案した天才の店です。ひと頃は月島エリア地上にも数軒出してました。で、おっとりした地元のお人よしの店抱き込んで「月島もんじゃ協会」なるものをぶち上げて騒ぎます。気付いた地元の他の店は本来町内会・商店会で間に合ってたものをもんじゃ業界だけの問題に町会巻き込むわけにもいかず対抗上仕方なく「月島もんじゃ振興会協同組合」を立ち上げ団結します。古参ご新規折り合いをつけてそれなり共存共栄してた西仲に、唐突によそから参入してきた業者のお陰で図らずも月島もんじゃ界は一時期分断されました。「ウチらは自然派だ、ヤツらはソース業者とつるんで…」等々の言い草、まだ残骸がここらに残ってますね。左のサイドバーのリンク先、ほとんど削除して工事中だったりリンク切れだったりですが、どうしてもって向きはWayback Machineでも使って2005年あたりにタイムトリップしたら当時の勇ましい言質の数々が見られますよ、文字化けもきついですが。「新規参入を怖れる地元の既得権益者が月島警察署と癒着して…」とか「ブーケットには日本人として認められるちゃんとした板前のいる寿司屋が一軒も無いので私が行って現地人を指導して開業」とか抱腹絶倒禁じえない苦労話の数々が掘り出せるかもです。現在は「月島もんじゃ協会」に騙された善良なるおっちょこちょいも目が覚めて、件の協会は解体、ムー系列のいんちき地上店も順次閉店、最後の「カネハラ海鮮もんじゃ」に至っては「がっかりしました」、「名物に美味いものなし」と散々な絶賛を食べログ上に残しつつ月島もんじゃの評判と信用を地に落として焦土作戦完遂撤退、現在屋形船部門のみ新木場に移って営業を続けている模様です。あれ行って不味かったの高かったの言われたって東京のせいじゃありませんからね、知りませんよ。満足したんなら結構です、あっちでやっててください。

いぶ前に「2ヵ所あります」って書きましたね、2ヵ所目。あるいは「正統っぽい東京もんじゃ」と「新参っぽいなんちゃってもんじゃ」の見分け方。前者は「もんじゃ」って表記してあります。後者は「もんじゃ焼き」って表記です、なことが多いです、絶対じゃありませんが。気持ち悪いもん「もんじゃ焼き」って。「天ぷら揚げ」とか嫌でしょ、インチキっぽいでしょ、それだけのことです。「美味い/不味い」じゃありません、あくまで素性の話です。

れてました話を戻すと、そういう訳で元来東京では「お好み焼き」と「もんじゃ」は別個の店で別個の客層対象にした商売だったんです。ここ2~30年です、せっかく道具あるんだから、と積極的にもんじゃを取り入れたお好み焼き屋もあれば、営業時間を延ばしてお好み焼きも出すもんじゃ・ぼった屋も出てきました。その一方で頑なに子供相手の安くて賑やかなもんじゃ屋を守る店、大人相手の静けさの中しめやかに執り行うお好み焼き屋もありました、という話でした。それが年々と減り続けてると。

なんですよ長年お好み焼きで看板上げてワケあり癖ありの大人の客相手にしてたお店にとって、子供のおもちゃ出すの。それでも客が五月蝿いから嫌々でも出す。
「えーっもんじゃ無いの~? お好み焼き屋なのに~? 東京っていんちき~!」
っての黙って出してやりゃおとなしくなるから。食ってカネ置いて出てくから。ウチ来てもんじゃは無いでしょうに、お好み焼きはお口に合いませんでしたかねぇ、って思いながら出す。出してやんないと食べログとかで物知らず棚に上げてあること無いこと罵倒するやつ出るから。浅草の「染太郎」なんか露骨ですね、「もんじゃ焼は平日12時~16時限定です」ってやってます。賑やかにわいわいカチャカチャやりたい観光客と、静かにやりたい古くからの馴染み客と、時間的に隔離してくれる。人形町の「さのや」も渋々だな。「各品もんじゃ焼は150円増しで承ります」とか、ペナ取ってるもん。いいなあの店は。お好み焼きホーローのマグカップで出す店って今もう絶滅に瀕してるもん。もんじゃやる客さえいなきゃ静かでいい店。いやいたっていいんだけどカチ合いたくないってだけです。

い出した、去年だったか浅草橋駅の高架下の2階にいつの間にか出来てた「もんじゃ・お好み焼き」謳ってる店、この辺に店開くんだから大間違いは無いだろってタカ括って入ったらなんだありゃ。もんじゃが酸っぱいってなに? 柑橘系とかそんなんじゃないんだ、隠し味に流しの下で5年くらい寝かしといたウスターソースの上澄みだけを厳選して柄杓に一杯入れました、みたいな酸っぱさ。どんぶりってか擂り鉢みたいな巨大なのにタプンタプン出してきて馬の栄養食かなんかか? 串揚げ屋の無料サービスみたいに豪快に切ってあるキャベツとかさ。広島弁のおばちゃん二人でやってたけど、知らないならもんじゃやるなよ、広島風でも焼いてりゃいいじゃん。

題の「あるお好み焼き屋さん」の話、ほとんど進んでないし。「琴ぎく」ですが、何年前から行ってたのかな、そんな昔じゃない。子供の頃から通ってたわけじゃない。10年くらいかな、いつの間にか行ってました。なんかの加減で月に3回くらい行っちゃったり、半年くらい行ってなかったり。いつも似たようなのばっかり食べてました、二人で行ったらお好み焼き2枚と焼きそば一つとか。お好み焼きはこうだ、もんじゃがどうだって話の途中で突然ですが、ここで焼きそばの話になります。割とよく注文しててその都度適当に焼いててそれなり美味かったんですが、近年ある時、鳥越神社のお祭りが明けて御仮屋神酒所片付けの日だったかな、珍しく居合わせたよその客。古参の馴染みらしい70絡みの紳士。学校卒業してからミッキー安川の本に騙されて単身アメリカ渡っちゃった人。行った先でロッキー青木なんかとも絡みがあったとか。今は鳥越の実家ギャラリーだけ残して盆栽町に住んで通ってる人。もう知ってる人なら十分特定できるなこりゃ。この殿方が「姐さん、焼きそば食べたいんだけど焼いてちょうだいよ」なんかいって甘えてる。二つ返事で支度ができて鉄板も暖まり女将さんが颯爽と具から麺から焼いていきます。その手際が見事で鮮やかで、鉄板焼ステーキみたいにチャンチキ大げさなやつじゃなくて、なんだろう、裁縫や縫い物の達人の手元見てるような。見惚れてるうちにあっという間に出来上がって火を弱めて「ハイ召し上がれ」ってカッコいい。仕上がりも麗しい。混ざるべきもんは混ざって余り火が通り過ぎない方がいいエビやなんかは上に程よく並んでます。アレいつも出される焼きそばと違うんじゃないのって出来映え。

る程あーやんのか判った覚えた盗んだ。その日だったか次回行った時だったか、覚えてるだけ真似してやってみました。以前より美味しそうに出来たようだけど、まだなんか様子が違うんだよなあ。それで次に行った時、ぼくも甘えて焼いてもらいました。食べたらね、もう見た目以上に違うんだ、ここの焼きそばってこんなに美味しかったの?って。まー商売人が焼くんだから素人より上手いのは当然なんだけど、当然の遥か上行く美味さ。参りました出直して勉強させて頂きます、ってのがそんな昔の話じゃない、今年だったっけ? それから何度行ったかな、暑くてしばらく足が遠のいてて一月以上あいて行った雨上がりの8月25日晩、この貼り紙です。

さすがお師匠さん、達筆だなー。感心してる場合じゃないけど。

十七年か、意外と短いのね、まぁ一代限りだったらそんなもんか、娘はこの店継がずに近所で串焼き屋さんやってるって松屋肉店(これも体調崩して長期休業中)のおばちゃん情報だけど何処だよ教わった場所に店なんか無いぞ。37年前ったら竹下通りのマリオンクレープとっくにあったよな、あれもずいぶん老舗なもんだ。ところで女将さんヘンなこと言ってました。「この店開く時にお好み焼きの勉強に半年くらい大阪に行ってたのよ」って、ここのお好み焼き、関西風の気配微塵も感じなかったですけど。ネギも青いとこなんか使わないし。なんの勉強してきたんだろなー。鉄板の手入れとかかな。いつも綺麗だし油のノリもいいもんな。琴ぎくの店内や料理の写真ってたぶん持ってないんだよなー、あそこでなんか撮った覚えないもん。今7分ほど探しても見つからなかったから絶対無い。かわりに「三岩」のお品書き見つけちゃった。ニンテンドーDSi 買った時の試し撮りだから2009年頃のだ。

 浅草すしや通り「三岩」御料理
ここに書いてないけど時々壁貼りで出てくる
「牛ロールステーキ」みたいの、美味いんだよなー

「ロールステーキ」ある日はワインもいいな
素面じゃ飲めないくらいの安ワインだけど
お代わりするたびにだんだん注いでくれる量が増えてくの





じく7月から8月にかけての別の話。多慶屋の裏手の御徒町公園に面した「キクヤパン店」、一部でちょっと有名な店だからググれば画像いっぱい出てきます。5年くらい前までは街のパン屋さんでした、焼きそばロールとかヤサイサンドとか売ってるような、今減りつつありますが、まぁまだあちこちにあるような店でした。それが面倒になったのかパン類やめてベビーパンダとかき氷の店になりました。正確に言うとパンダ焼きとミニ鯛焼きとベビーパンダとかき氷の店だったんですけど、だんだん絞り込んで最終形態はベビーパンダとかき氷が残った。とは言えベビーパンダには「小倉」と「カスタード」と「ハムチーズ」の三種あります。
「あのね、ハムチーズって書いてあるけどチーズ使うと高くなるからね、今ハムマヨネーズなの」って正直爺さん。食べりゃわかるしそれはそれで美味いから黙ってていいのに。でアイスペールで使うギザギザついた氷用トングね、あれでベビーパンダつまんでパックに並べるの、やや震え気味の手で。時々落としそうになって力入っちゃってトングのギザギザが食い込むの、パンダちゃんの顔に、跡がつくくらい。


の写真のタイムスタンプが7月5日になってますね。で写真の下にあるように「研修の為休み 7月25日金曜日」ってなってます。8月に入ってから何度か前を通ってるんですよ。でも閉まってる。何日間の研修なんだか、って思ってるうちに8月の半ばも過ぎて、どうもおかしい。聞いたら店このまま仕舞うそうで。半世紀以上やってたのに借家だったそうで9月中に荷物まとめて出てくとか。もうこれでじんわり寂しくなってたとこ畳み掛けるように「琴ぎく」の閉店。




陽気もんじゃパーティー否定するわけじゃないんです、ぼくだって今でも北は北千住から西は西日暮里まで、やってますから。人形町の初音とかいいんだよなあ、先にもんじゃやって鉄板散らかしちゃった後からお好み焼きも食べたいねってなった時も鉄板いっぺん洗ってくれるし。〆に下の店からかき氷やトコロテンや豆カン取ったりできるし。でもしっとり密会気分でお好み焼きって、そんな時これからどこ行ったらいいんだろ。「松浪」も平日リーマンで混んでるしなぁ。鉄板にヘラ立ててカンカンやって土木工事して汁流し込んで湯気がボアーっと上がってキャーなんか悲鳴も上がって拍手なんかも沸きあがってオセンベだぁロールだぁって賑やかで結構なんですけど、それじゃないって気分の時もあるんだよなー。じわーっと縁に沸いてくる気泡の数なんかしんみり数えてたい日もあるさ。夜の染太郎でも行くかな。でもそういう時間こそガイドブック片手に迷い込んじゃって「えーっ、なんで夜はもんじゃやらないの~? ぼったくり~?」ってのが現れるんだなあ、困った困った。